夏椿の天使~あの日に出会った旋律

夏目奈緖

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 営業企画部のオフィスに到着した。ざわざわした音と話し声が聞こえてきた。スーツ姿の社員さんの中に、一人だけラフな格好をした人がいた。それは早瀬さんだった。すぐにこっちに気づいて、手を振ってくれた。ジャージとパーカー姿が似合っている。

「こんにちは!」
「聞いているよ。開発チーム参加の面接だったね。俺が担当する。……ああ、この格好?」
「はい。珍しいね?」
「グループ企業内でイベントをやるんだ。社員向けの運動会のようなものだ。準備に駆り出されたよ」
「そうなんだ。大変だね。あ、すみません。会社なのに、敬語を忘れていたよ……」
「構わないよ。終わったから着替えてくる。……常務、役員室で待っていてください」
「分かった。ほら、行くぞ」
「うん!」

 来週、メニュー開発の面接を受ける予定だった。それを今日に繰り上げてくれたそうだ。静かに後ろを付いていくと、周りから声が掛けられて手を振られた。もう何度も来ている。笑顔を浮かべて会釈した。ステージに立っている時は、いくら注目されても緊張しないのに、日常に戻ると恥ずかしい。
 
 奥の方にある役員室に着いた。またラフな格好をした人を見かけた。イベント準備に駆り出された人だろうか?ぼんやりしていると、黒崎から肩を引かれて椅子に座らされた。

「ここに座っておけ」
「うん。何か準備することはある?」
「何もない。如月君が向こうにいるぞ。マーケティング推進室のデータ整理をやってもらっている。去年の秋も大活躍だった」
「そっか。悠人からも聞いたよ。メニュー開発でも一緒だよね」
「理久君も決まった。よかったな?」
「うん。この資料って決算短信の補足?」
「読めるようになったか。こっちは…」

 黒崎のパソコン画面を眺めた。素早くプリントアウトして目を通して社員を呼び、いくつか指示を出した。さらに電話が掛かってきて、画面を見て答えた。今度は数人がやってきて、黒崎にファイルを渡した。やっと椅子に座ったかと思えば、書類に付箋を貼って書き込みを始めた。

 それらの動きについていけなくて、目が回りそうだ。しかも、俺に話しかけながらの作業だ。黒崎のことを見ていると、こっちに視線を向けないままで声をかけられた。

「……どうした?」
「どうして見ていることが分かるんだよ?」
「気をつけているからだ。早瀬が来たら帰る。もう少し我慢してくれ」
「ええ?面接は?」
「すぐに終わる」

 黒崎へ視線を向けたままで、肩を叩いてきた。顔を上げると、着替えを済ませた早瀬さんが歩いてきた。どうして分かったのだろう?さすがに怖くなった。すると、早瀬さんが苦笑しながらそばに立った。そして、紙袋を差し出さて受け取った。
 
「圭一さんにイジメられていた?」
「ううん。行動が早すぎて、妖怪に見えたんだよ」
「はははは。これは夏樹君にだよ。ウサギのジュリエットのエプロンとスリッパのセットだ。お菓子のキャンペーン商品だよ。クリーム色を持ってきた」
「ありがとう。ウサギの耳がついてるんだね~」
「常務のデザインが採用された。ははははーっ」
「マジで?カフェのハンカチもそうだよね?」
「そうだよ。社内で公募しての結果だ。名前は明かさずに、投票で決定した。まさか両方が採用されるとはね……」

 早瀬さんが吹き出して笑った。黒崎が彼の腰を叩いた後、通りかかった人まで笑い出した。こんなに楽しい雰囲気の中で過ごせているならよかった。

 ぼんやり眺めていると、黒崎あてに電話がかかってきた。そろそろ説明を始めようと言い、早瀬さんが向かいの椅子に座った。メモを広げた後、書類を渡してくれた。開発チーム参加の業務内容と承諾書と書かれている。さらに、書類を読みながら説明してくれた。

「日程、内容、賃金、オフィスでのミーティング回数です。……以上です。サインをして圭一さんに預けて」
「はい」
「……圭一さんはまだ電話中か。夏樹君。寒いんじゃないのか?お茶を淹れてくるからね」
「おかまいなく。一階で飲んできたから」
「最近はどう?悠人からも聞いているけど」
「発作的なものは起きていないよ。レッスンも通っているし」
「そうか。遠慮せずに、悠人を使っていいからね」
「ありがとう。いつも世話をかけているよ」

 また笑い合っていると、黒崎の電話が終わった。そして、早瀬さんへ仕事の段取りを伝え始めて、早瀬さんが何冊もファイルを受け取った。

「すまない」
「俺は大丈夫だよ。来週、頼むことがある」
「……分かった。さあ、出るぞ」
「夏樹君、またね」
「ありがとう」

 早瀬さんが手を振って向こうへ行った。その後ろ姿を見送っていると、黒崎のコートを肩に掛けられた。オフィスに置いてあった物だ。至急の用件で外出することがあるから、一通りの服装をオフィスに置いてある。なんて段取りのいい人だろう。

「帰りにショップへ寄っていいか?新しいスマホを買いに行く」
「うん。ありがとう」
「行くぞ。ゆっくり行こう」
「うん……」

 今日の黒崎は歩くスピードが遅い。つまりは、俺に合わせているということだ。こういう気遣いは一年ぶりぐらいに感じる。なんだか嬉しくて、忍び笑いを我慢しながら、オフィスを後にした。
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