夏椿の天使~あの日に出会った旋律

夏目奈緖

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 黒崎製菓のビルから出ると、空が晴れ渡っていた。南の空には虹がかかっていた。大きなもので、西の方角にも広がっている。ちょうど我が家の方向だ。

「黒崎さん。虹がかかっているよ。振り向いて」
「けっこう大きいものだな。ちゃんと7色あるぞ」
「うん。4色ぐらいしか見えないもんね。虹を見せてやったから、頑張れってことだよ。神さまからのメッセージじゃないかな……」 
「神様から機嫌を取られているんだろう。よかったな。なかなか出来ない経験だ」

 クシャクシャと頭を撫でられた。これは元気づけようするときの動作だ。喧嘩をして機嫌を取るときは、顔を覗き込んでくる。今は並んで歩いて、同じ虹を見ている。だから大丈夫だと思った。

「今日の会社はどうだった?」
「今日はあまり緊張しなかったよ。少しだけ慣れたみたいだよ」
「家の方はどうだ?もうすぐで引っ越してきて一年になる」
「慣れたよ。でも、黒崎家はって聞かれると、馴染みがない雰囲気だよって答えるしかないなあ」
「お前の実家は明るいからな」
「似たような環境よりも、刺激的で面白いよ。研究意欲が湧くんだよねえ……」
「さっきまで泣いていた子のセリフか?因縁だらけの家だ。親父の家はお化けが出るかもしれない。ガキの頃、書斎の隣の部屋に入るのが怖かった」
「それって右だよね?」
「左だ。あの部屋が気に入っているだろう?図書室だ」
「言うなよーっ」

 耳を塞ぐようにして離れたのに、肩を抱かれて定位置に戻されてしまった。さらに顔を近づけてきて、笑い声を立てている。嫌な予感がしたのは正解だった。

「古い本を置いてあるだろう?それを読んできた人間が……」
「ひいいいっ」
「夜はガタガタと音がして、それでも読みたい本があった。勇気を出して入ると、窓から光が見えた。ぼんやりと白い……」
「ひいいいっ」

 耳を塞いでいるのに、黒崎の声が響いてくる。だんだん視界がボヤけてきた。本日3度目の涙だ。まさか、こんな意地悪で流すなんて。

「うっうっ。ひっく、うぇ……、ひっく」
「……おい、言い過ぎだか?」
「うわああんっ。ひがて……ひゃって……ひってるひゃひょ」
「ぼんやりと白いものは月だ。満月だ。すまない。許してくれ」
「因縁って?」
「どこの家でも同じだ」
「実家は何もないよ……」
「会社を経営する以上は恨みも買う。それはもう理不尽だ。そういうものが渦巻いているのは否定しない。それでも見たことは……」
「あるの……?」
「親父も俺も見たことがない」
「嘘をつけない人になったねえ?ひっく、うっうっ」
「泣くな。俺が悪かった」
「もう確定じゃん、うわああんっ」

 ここはオフィス街だ。歩道にはたくさんの人が通り過ぎている。さすがに泣き止みたいのに、嗚咽が止まらない。オロオロしている黒崎から促されて、背の高い植え込みへと歩いて行った。そして、ふちに腰かけて、黒崎のハンカチで涙を拭いた。

 泣いてばかりだから、頬がふやけてきた。鼻の下が痛いし、目尻も違和感をある。ポケットティッシュがなくなった頃に涙が止まり、機嫌を取られながらタクシーに乗り込んだ。
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