夏椿の天使~あの日に出会った旋律

夏目奈緖

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 午前9時。

 黒崎製菓前にやって来た。この周辺には何度も訪れている。バンド練習で利用している音楽スタジオがあり、本社ビルを通り過ぎると、悠人のバイト先の楽器店がある。このオフィスを拠点として繋がっているから縁がある。

 正面エントランスを通ってロビーに入った。前回ここへ来たのは、お義父さんとの待ち合わせだった。まだ半年も経っていないのに、もっと前のことに思える。

 ガーー。ザワザワ……。

 スーツ姿の人が数人話し込んでいる。忙しそうに出て行く姿もある。自分もスーツ姿だ。沙耶さんから贈られたネクタイを締めている。黒崎の初出勤ネクタイは、とっておきにした。さっそく受付に行って用件を伝えた。

「おはようございます。黒崎と申します」
「おはようございます。伺っております。こちらを」
「ありがとうございます」

 受け取ったのは来訪者用のバッヂではなく、顔写真付きの社員パスだ。出入りするときに身に着けておくものだ。カウンターを離れようとすると、以前のようなフレンドリーな笑顔をもらったから、照れくさいながらも笑顔を返した。

 ガーーー。

 20階に到着した。これから営業企画部のオフィスに向かう。今日から働く場所だ。スーツの襟を直して、何度も深呼吸した。エレベーター前のホールは静かであり、どうも落ち着かない。

「ふう……、すーー」
「……ふーっ」
「ふーーっ」
「……すうーーっ」
「すーーっ」
「……ふーーっ」
「ふ……んん!?」

 同じように深呼吸をしている人がいる。ここで立っているのは邪魔だったろうと振り返ると、早瀬さんが笑顔で立っていた。ほっとしながら挨拶した。

「おはようございます。よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく。常務は到着しているよ。会っていく?」
「いえ、お構いなく。家でも会っているので」
「ここではタメ口でどうぞ。エレベーターを降りたら敬語だ」
「いえ、それだと急には……」

 今ここで敬語にしないと、切り替えが出来ないかも知れない。それを言うと、微笑みを返された。懐かしいと思った。黒崎と出会ったばかりの頃の早瀨さんのようだ。

「切り替えが上手でしょう?遠慮なさらず」
「早瀬さんこそ、前の話し方じゃん」
「今さら肩が凝るだろう?リーダーは平田と枝川だ。もう平気だろう?」
「はい!」
「返事は、”うん”でいいよ」
「うん!」

 お言葉に甘えてタメ口で返事をした。そして、オフィスへ入るや否や平田さんが走ってきて、ミーティングの部屋へと引っ張って行かれた。文字通りに。黒崎から頼まれたそうだ。”誰にも触られることなくミーティングルームへ連れて行くように”と。とても頼んでいるような言い方ではない。頭が痛くなりながら、平田さんにお礼を言った。
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