海のそばの音楽少年~あの日のキミ

夏目奈緖

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10-1 二つの分岐点

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 10月1日、月曜日。21時。

 このマンションに住み始めて2カ月半が経ち、生活パターンが落ち着いた。早瀬の怪我が良くなり、普通に生活する分には影響がなくなった。楽器を弾くことも問題ないという。

 早瀬は書斎で資料を読んでいる。俺は楽器部屋でギターの練習をしている。楽器用の防音仕様だから、好きな時間に弾くことが出来る。早瀬もここでヴァイオリンを弾く時がある。早瀬はヴァイオリンを弾くことは、子供の頃からの習慣だと言っていた。しかし、最近は忙しくて、そういう時間が持てなくなっているようだ。
 
 早瀬が書斎にこもっている間、俺はなるべく静かにするようになった。早瀬がそうして欲しそうにするからだ。一緒に暮らすようになり、彼のことが分かってきた。

 早瀬には二つの顔が存在する。表現するならば、会社員とギタリストの顔だ。それぞれ別人に見えるときがあり、戸惑い始めた。普段から多く見せている顔は、ギタリストの顔だ。明るくて、ペラペラと喋っている。会社員としての顔は真逆だ。家の中で資料を読んでいる時は冷静で静まり返っている。冷たくも感じるほどの空気を纏っていて、話しかけたらいけないと感じている。

 それが、まるで父のようだと思う時がある。俺が小さい頃は、父が書斎にいる間は、家の中では静かにしなければならなかった。母は仕事が忙しくて留守にすることが多かった。それでも家に居るときは、同じように静かにしていた。友達から聞かれたのが、掃除機をかける時やテレビを見たい時はどうするのかということだ。それにはこう答えた。父が出勤している間に、ハウスキーパーさんが作業をしているのだと。毎日の食事づくりもそうだった。それだけ家の中は静まり返っていた。今のように。

 このマンションは3LDKで、寝室、楽器部屋、早瀬の書斎がある。楽器部屋が自分の部屋のようなものだ。ここに引っ越してきた時はリビングで一緒にくつろいでいたが、今は別々の部屋で過ごすことが増えた。早瀬の仕事が忙しいからだ。

 カタカタ……。

 ギターの練習を終えて、部屋を出た。そして、書斎の前に来た。ドアの隙間から明かりが漏れている。ノックをすれば早瀬の顔が見られる。しかし、それが出来ない。自由に入って来てもいいと言われているが、躊躇している。会社員の時の顔が怖いからだ。拒否されているようにも感じている。

 パタパタ……。

 なるべく静かに書斎の前を通り過ぎて、キッチンへ入った。温かいものが飲みたくて、珈琲をマグカップに注いだ。晩御飯の後、コーヒーメーカーで淹れておいたものだ。

 カチ……。

 テレビをつけて音量を下げた。世界の面白映像が流れている。プールサイドの木に立てかけてある梯子を登っている男がいた。それを途中で踏み外してしまうのを見て吹き出した。彼のことを助けようとしているのは、隣の家に住む女性だ。

「……『オーマイゴッド。何て事をしたのーー。いい年をしてーー』」
「えええ?何だこれ……、ぷぷぷっ」

 思い切り笑いたいが、声を出すのを我慢した。ここまで気にしなくていいのにと自分でも思う。するとその時だ。背後で物音がした。振り向くと、早瀬がコーヒーメーカーの前に立っていた。纏っている空気が冷ややかだった。完全に仕事モードだ。ほんの一時間前は、賑やかなギタリストの顔をしていたのに。

「裕理さん。俺がやろうか?」
「いいよ。注ぐだけだ。ボリュームを上げていいぞ?気にするな」
「うん。ありがとう」
「悠人……」

 呼び捨てにされた。普段は悠人君と呼ばれる。俺のことを叱る時は呼び捨てだ。そして、新しく追加されたのが、会社員の顔の時だ。そういう時は、俺のことを呼び捨てにする。外でも同じだ。会社の人に会った時には仕事モードだ。プライベートの知り合いの前では、悠人君と呼ばれている。

 フワッと珈琲の匂いが近づいた。振り返ろうとすると、肩に重みが出来た。早瀬が俺の肩に顎を乗せて、覗き込んできた。

「悠人君。拗ねているのか?」
「ううん?そんなことないよ。静かにしていようって……」
「書斎の前で立ち止まっていただろう。入って来ていいんだよ?」

 悠人君と呼ばれた。ギタリストの顔に変わったということだ。こういう時は安心して話すことができる。エロい冗談ばかり口にする人になるが、落ち着いていられる。
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