アイアンエンジェル~あの日の旋律

夏目奈緖

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30-1 過去の後悔から、未来へ(黒崎視点)

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 8月10日、金曜日。午前5時半。
 
 シャワーを浴びた後、キッチンへ向かった。廊下にまで味噌汁のいい匂いが漂っていた。アンは父と散歩中だ。そろそろ帰ってくるだろう。

 キッチンに行くと、夏樹が朝食の用意をしてくれていた。ウサギ模様のエプロンを着ている姿へ近づくと、厚焼き玉子を焼き終えて皿に盛っていた。この日常光景が愛おしく、毎日帰るのが楽しみだ。

 ふと、一年前を思い出した。恋人同士になり一緒に暮らしていたが、お互いに遠慮して、大切にしたいという気持ちが空回りしていた。どうして分かってもらえないのかとばかり考えていた。今ではそれが和らいでいる。お互いに言いたいことを言い、自由にしている。その分喧嘩が増えたが、良いことだと思っている。

「さすがに暑いな~。ふう~」

 夏樹が換気扇の下に立った。我が家の周りは木々が多い分だけ涼しくはある。それでも暑いものは暑い。朝の時間でも、すでに気温が上昇している。それでも、こうして食事の支度をしてくれている。ありがたいと思っている。

 夏樹のことを驚かせようと思い、ゆっくりと近づいて行った。すると、彼が背後のカウンターからうちわを取り、大きく扇ぎ始めた。メッセージカードを貼り付けた物だ。家の中で使う分には、まだ良いと思うようになった。

「ふう~、使いやすいなあ……。るるるーー、黒崎さーんのー、ブックカバー、レース編み仕様ーー、イエー!」

 そのうちわをマイク代わりにして、夏樹が歌い始めた。そして、シャウトをしていた。ボーカルレッスンの成果だ。喉を傷めない発声方法で身に着けたものだ。

 バンドのコンテストまで、あと8日だ。ステージで緊張しないようにと、家の中で練習をしている。動き回っている姿を見て、すっかり元気になったのだと分かってホッとしているが、うちわを使われるのが恥ずかしいと思っている。

(頑張っているから我慢するか……)

 本音では、家の外では使ってほしくない。それで夏樹が落ち着いてステージに立てるなら、それでもいいかと思っている。

 彼の体を抱き寄せようと背後から近づいた。すると、両腕を伸ばして触れようとしたタイミングで、夏樹が振り返った。そして、避ける間もなく、夏樹の額が俺の肩へ当たった。怪我をしている場所だ。

「痛いよ~、うーーーっ」
「夏樹……」

 左の額を押さえて、夏樹がしゃがみ込んでしまった。コンテスト前でナーバスになっているだろうから、今回は叱るのをやめた。同じようにしゃがみ込んで、彼の顎を持ち上げた。

「……夏樹、大丈夫か?」
「いたいよー」
「すまなかった。黙って近づいたからだ」
「黒崎さん……、どうしてそんなに優しいんだよ?俺のことを叱らないのかよ?」
「叱らない」
「嬉しくて泣きそうだよ、うっうっ」
「心配だからだ。痛みはどうだ?」
「まだ痛いよ……、オマジナイをしてよ」
「どんなやつだ?」
「いたいのいたいのとんでいけ!だよ……、うっうっ、痛いよ~」
「ああ……」

 出会った頃にやったことがある。今はやりたくないと拒みかけた時、夏樹から、潤んだ両目で見つめられた。白い頬は赤みが差していて、まつ毛が濡れて光っている。そして、ふっくらした唇が嗚咽で尖っている。この表情に弱いという自覚をしている。夏樹はナーバスになっている。元気づけたいと思った。

「うっうっ、痛いよ……」
「特別だぞ。次からはやらない」
「うん!」

 夏樹が笑った、一瞬のうちに涙が止まったようだ。本当に泣いていたのかと疑いたくなった。しかし、深くは追及せずに、夏樹の額に手を当てた。

「いたいのいたいのとんでいけ……」
「ヘヘヘ……」

 夏樹が照れくさそうに笑った。泣き顔が笑顔に変わる、この瞬間が好きだ。機嫌を取ることに成功した達成感もある。

「……どうだ?痛みは」
「もう痛くないよ、うヘヘ……。もうすぐ朝ごはんが出来るからね。ソファーで待っててよ」
「何か手伝うぞ。トーストを焼いてやろうか?」
「いいんだよ~。黒崎さんだって痛かっただろ?座っててよ」

 背中を押されてソファーへ行った。その流れで彼のことを押し倒すと、足蹴りを食らった。アンが父に連れられて、散歩から帰って来たからだった。
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