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# act7 周期発情
しおりを挟むオメガは昔、季節ごとに発情があったらしい。ちょうど、動物が春に発情するように。
そのときのオメガのフェロモンは、とても強かったと聞く。
でも今は、アルファの誘発フェロモンを浴びることでしか発情できないし、そのときも微弱なフェロモンを発するだけだ。
ずっとアルファの強烈な臭いにかき消されてきた『僕の匂い』に初めて触れることができたのは、セシル先生が一緒にいてくれたからだ。
清潔で、匂いのない先生のことが、好きで……たまらない。
実験が終わって帰宅してから、セシル先生のことばかりを考えてしまう。
お風呂に入っている時、食事をしているとき、寝ている時。
いまもこうして、パンと薄いスープを食べながら、あの実験のあとのケアのことを思い出していた。
彼の言葉、抱きしめられた感触、絶頂に導かれた視線や指先、全てを……。
――あんなに微弱な、僕のフェロモンでも、セシル先生に届いた……。
最初は自分のフェロモンでセシル先生が興奮してくれたことが、単純に嬉しかった。
しかし、時間が経つにつれて、今頃は後悔しているだろうと思うと、辛くなってきた。
次はきっと警戒されるに違いない。
患者と個人的な関わりをもつ医者を軽蔑するとまで言っていたのに、そこまで落としてしまった。
申し訳なさに泣きそうになりながら、メッセージ画面を開いても、謝罪の言葉を打つことができなかった。
もし、拒絶の言葉が送られてきたら……きっと……。
翌日、セシル先生からメッセージが送られてきた。
そこにはいつも通りに、次の実験の日付を伝えるだけのものだった。
※ ※ ※
こんなに不安を抱えながら実験に赴いたのは初めてだった。
しかし、セシル先生は怖いくらいにいつもと変わらなかった。
抱きしめて、キスしてくれたのに、あれは丸ごとなかったことにするつもりだろうか。
でも、そのほうがいいのかもしれない。拒絶されるよりは……。
そんなことをぐるぐる考えていたら、唇に薬が当たった。
え? と前を見ると、セシル先生が指で薬をつまんで、唇までもってきていた。
顔が近い。吐息があたる……。
それだけでもどきどきするのに、『あーん』なんて……。
何でセシル先生はこんなことをするんだろう。今まではただ事務的に渡すだけだったのに。
ふと、彼の顔が、この前のケアのときと重なる。
少し興奮しているような、満足しているような……そして、自分の所有物を愛でるような……。
その瞬間、カチリと何かのスイッチが入った。
先生に見られながら、口を蹂躙されて、絶頂されられた。それを全て悦びとして受け取ってしまえる、服従のスイッチが。
「どうしたの? ぼうっとしちゃって」
僕は顔がじわっと熱くなるのを感じながら、小さく口を開けた。
効果も副作用も説明されていない、あやしい薬を飲まされているのに、それは砂糖のように唇に甘く感じた。
口の中に小さな粒が落ちたとき、舌が、ほんの少しだけ、指に触れた。
喉の奥が、彼の指の感触を思い出して、こくりと薬を飲み込んでしまう。
「飲んだね、じゃあ実験を始めるよ。……ラゼル、入ってきてくれ」
ラゼルがいつものように入ってくると、二人の空気を壊されたようで少し嫌だった。
ピンク色の清潔なシーツの上に、急に土足で上がられたみたい。
ラゼルが隣に来て話し始めると、セシル先生の空気が冷たく張り詰めたのが分かった。
フェロモン値を読み上げながらメモを取っているが、頻繁にコツコツとメモ帳を叩く。
こちらを見る視線も鋭い。
この前、発情後にグルーミングで鎮めてくれた時は、強烈な視線なのに優しさを感じた。
けれど今は、切り裂くような鋭さに、突き刺されるようだ。
目の前にラゼルがいるのに、彼の存在は完全に意識の外だった。
ただ、セシル先生の視線だけを感じていた。
それが腹の奥に火をつける。
息が荒くなり、からだ全体に熱が回り始める。見られている。この反応を。
恥ずかしい。でも、見て欲しい。
この前みたいに〝僕で〟興奮してほしい。
そう思うと、まるで見せつけるように過剰に発情してしまう。
やがて、セシル先生のフェロモン値を読み始める声が掠れてきた。
彼の視線はモニターに向かっている。それなのに、見られている気がする。
腰を揺らすと、余計に視線を感じる。見ていないのに、なぜだろう。
「今日は反応いいじゃねえか」
ラゼルの声が割って入った。
その瞬間、パイプ椅子がガタンと大きな音を立てた。
セシル先生が立ち上がっている、その後ろで椅子が揺れていた。
「すまない、少しだけ席を外す……ラゼル、発情反応が起こったら実験を中止して換気を頼む」
「おっ、おい」
何がいけなかったのか分からなかった。さっきまであんなに見ていたのに。
いま、彼が何かから逃げたのは分かった。
でもなぜ……?
呆然としながらラゼルを見ると、彼は太い眉をひそめて、チッ! と舌を鳴らした。
だが、僕を振り返った表情は、陽気な彼に戻っていた。
「……ユウ、お前、俺の事なんとも思ってねぇだろ」
ニコニコ笑いながらそんなことを言われて、戸惑ってしまった。
「それは……でも、お互い実験の協力者だし、当たり前というか……」
「普通はオメガは俺に惚れるんだがな……」
その言い方にちょっとむかついてしまった。
「その自信過剰なところが嫌なんですよ」
僕にしては強めの台詞だったが、ラゼルは涼しい顔をしていた。
「まあ、お前もアルファに嫌な思いをさせられてきたのは分かるよ。……だったらさ、俺に守られないか?」
「……え?」
「お前みたいなのは、アルファに振り回されるのが嫌なんだろ。でも俺だったらフェロモンで守ってやれるし、つがいになればもう他のアルファのフェロモンは効かなくなる」
「…………」
「お前は自由を手に入れられるんだよ、ユウ」
ティアBのフェロモン強度を持つラゼル。
さすがにその自信に裏打ちされた力は本物だということは分かる。
彼のフェロモンを纏えば、他のアルファたちは手を出してこないだろうし、つがいにして貰えれば完璧に防ぐことはできる。
「なんでそんなこと……あなたに得があるようには思えないけど」
ラゼルは少しだけ目を逸らしたが、すぐに真正面から見つめてきた。
その頬は薄く紅潮している。
「……初めて……なんだよ、こんなに気になったのは」
「…………」
「俺に抱かれろよ、俺のものになれ」
〝自由〟――強烈にその言葉に惹かれた。
ラゼルに抱かれれば、それと引き換えに手に入る。
その瞬間、視界にビルの隙間から見える青空が重なった。
どんなに美しくても、それは四角く区切られた世界なんだ。
アルファに翻弄されない生活は、アルファの支配によってしか成り立たない。
僕は小さく首を振った。
「あーあ、ふられちゃった」
ラゼルはそれでも笑っている。
少し痛そうな表情が、胸をちくっと刺した。
「あなたはとても強いけど、僕には強烈すぎるんです。
その香りに包まれて、僕は自分の匂いを一生、知らないまま過ごすことになる」
ラゼルは少し驚いた顔をしていた。
初めての異国の言葉を聞いたみたいに僕を見て、それから少しだけ唇をゆがめた。
「それでもさ、逃げ出した奴よりかはマシだろ?」
彼の言葉に、出て行ってしまった先生のことを考えた。
「……なんで、セシル先生は行っちゃったんだろう」
「はあ? そんなの、お前をこれ以上、〝観察〟することができなくなったからだろ」
「どういうこと?」
「とにかく、あいつは研究者でいることを放棄した……」
そこまで言ったとき、ラゼルは、はっとして僕の手首をつかんだ。
そこにはモニタリングバンドが、黒い画面に緩やかな下降線のグラフを描き続けている。
「ユウ、発情値が下がってるぞ!」
言われてみれば、いつもならとっくに発情反応が出ているはずだ。
それどころか、セシル先生がいた時は確かに体が熱かったのに、今はまったく普通になっている。
ラゼルの甘い香りは強くなっているのに。
「フェロモン濃度89 nAf……! お前、なんともないのか?」
僕は戸惑いながら頷いた。
「どういうことだ……薬の効果が急に……?」
カチャ
扉が開いて、ごく普通にセシル先生が入ってきた。
固まっている僕とラゼルの横をつかつかと歩き、いつものモニターの前に腰を下ろした。
「驚いた……発情値が下がるとは」
「お前、どこにいたんだよ」
「モニター室だ」
セシル先生は試験室の横を指さした。
「ここにもモニターは置いてあるが、より詳細な記録はモニター室で確認できる」
「じゃ、じゃあなんでそれを言わずに……」
「この前、ある仮説が浮かんだ。それを確かめるためだ」
「……仮説?」
セシル先生は僕を見つめた。
その瞳は圧があるのに、強くて優しかった。
「ユウくん、実験を再開するよ」
セシル先生はゆっくりと足を組んだ。
「これは発情実験だ」
「……はい」
ラゼルは傍らで固唾をのんで見つめている。
ピピッ
モニタリングバンドが音を立てた。その瞬間、先生の言いたかったことが分かってしまった。
僕はあまりにも恥ずかしくて、俯いてしまった。
「駄目だよ、ユウくん。こっちを見て」
僕は恥ずかしくて熱くなった顔を上げた。そのからだを、セシル先生の視線がまっすぐに貫く。
「ごめんなさい……僕」
ピピッ
無機質な機械音が、からだの熱を刻む。
セシル先生の口元は静かな笑みを湛えていた。
「いいよ、言ってごらん。いま君が何を感じているか……必要なことだ」
言わなきゃ、と唇を動かしても、声が出ない。
またバンドが音を立てた。
「フェロモン曝露実験なのに、ラゼルさんじゃなくて……セ、セシル先生で……」
ピーッ!
「セシル先生に見られると……、僕……」
「発情反応確認、実験を中止する」
ラゼルは信じられないものでも見るようにこちらを凝視している。
発情反応が起こったら実験を中断する。いつものことなのに、セシル先生の声は興奮に震えていた。
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