【完結】王国中の穢れを集める「毒の器」の私を捨てた国王様へ。銀狼騎士団長の十年来の執着で「愛の器」になったので、二度と戻りません。

Marine

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# act8.湖の救出劇①

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 カストレル通りで買い物した後、ランチを食べた。
 お腹がいっぱいになった私は、ジーンと食後の散歩をするために、通りの裏手にある湖畔の公園に来ていた。
 アレクセイとカイは馬車に不具合があると御者のクレイに呼ばれて、その場を離れた。

 あたたかく、風も止んで穏やかな陽気だった。
 湖に降りる小道を歩いていると、数人の青年の笑い声や、囃し立てる声が湖のほうに向かって聞こえた。
 
「ほら、踊れよ獣人!」
「氷水がお似合いだぞ!」

 石を投げる音と共に、下卑た笑い声が響く。
 あのフェルナー卿と同じ、他者を蔑む響きに、私の背筋が凍った。
 嫌な予感に足早に降りていくと、すぐに目についたのは小さな動物のようなものが、凍った湖の真ん中にうずくまっている光景だった。

(あれは獣人の子!)

 気付いた瞬間、私はコートを脱ぎながら走り出していた。
 
「ジーン、アレクセイ様に伝えにいって! 獣人の子が湖に取り残されていると」
「はい!」
 
 湖へ駆け下りながらコートを広げ、その上に腹ばいで静かに乗った。
 湖は凍っていたが、まだらに薄い部分が残っていた。
 このまま、あの子のところまでいって!
 私は祈りながら岸を蹴った。

 体は湖の上を滑っていき、引っ掛かりながらも獣人の子のところまでたどり着くことができた。
 その手を掴んだ瞬間、体の下で氷にひびが入った時の嫌な音がした。
 これ以上進むと氷が割れるかもしれない!

 「動かないで……!」

 私は腹ばいの状態でゆっくりと獣人の子を引き寄せた。
 じわじわと小さな体を自分の方に引っ張り、やっと上半身をコートの上に乗せられた。
 二人は無理だが、この子だけの体重だったら、岸までは行けるかもしれない。
 しかし、それは私がこの湖の上に取り残されることを意味する。

(死にたくない……)

 王宮で毒に焼かれていた時は、あんなに死を望んでいたのに。今は、あの邸に、彼の元に帰りたくてたまらない。
 それでも、この子を助けるにはそうするしかない。私は慎重にコートの上から降りた。

「いい? このコートに乗って滑れば、岸まで行ける。体をぺったんこにして。絶対に立ってはだめよ」

 獣人の子は、大きな目をくりくりさせた。

「あんたは?」
「私は重いからここに残る。すぐに助けはくるから、大丈夫。
私がコートから降りたら、行くのよ。手をオールみたいに動かして、氷の上を進むの。できる?」

 私は静かに体を動かし、右足を氷の上に下ろした。
 この子を力いっぱい押したら、その反動で私の下の氷は砕けてしまうかもしれない。
 そうしたら、冷たい水へ落ちてしまうかも。
 ミシリ、と足元で不吉な震動が走った。
 その瞬間――ごめんなさい、アレク。あなたを一人にしてしまった。
 耳元で、誰かの泣き声が聞こえた。まだ若い女の子の声。
 体が燃えるように熱い。誰かの腕の中で、私は同じように「アレク」と呼んでいた気がする。
 
(……え? 『アレク』? 『また』って……?)

 脳裏に、一人で暗闇にいるアレクセイが一瞬だけ横切る。
 そのとき感じたのは恐怖ではなく、切なさだった。むねがきゅうっと締め付けられる。

(私、寒さで頭がおかしくなっちゃったのかな……?)

 その時だった。
 背後から、全てを書き換えるような轟音が鳴り響いた。
 舗装のない道を車輪が全力で走る音が迫ってくる。
 岸を見ると、遊歩道の柵に乗り上げ、湖への下り坂を馬車が下ってくるのが見えた。
 手綱を握っているのは、御者ではなく、アレクセイだった。
 
「ヒッ、き、騎士団長……!? なんでこんなところに……!」
 岸辺で囃し立てていた青年たちの、引き攣った絶望の悲鳴が重なる。

 彼の顔には、ただ怒りや焦りだけでなく、驚愕と、恐怖が入り混じっていた。
 その視線はまっすぐ私を捉えていた。
 氷の上で腹ばいになり、獣人の子を引き寄せている私を。
 一瞬、その顔が、世界が終わったかのように絶望に歪んだ気がした。
 けれど次の瞬間には、歴戦の騎士の顔に切り替わっていた。

「メル!!」

 その叫びに重なるように、ガキン! 金属音が響いた。
 アレクセイが車輪を落とすために、車軸の割りピンを踵で弾き抜いたのだ。
 車輪がひとつ、外れて急斜面を跳ねながら転がり落ちていく。
 アレクセイは雪煙を巻き上げながら、暴れる馬をねじ伏せるようにして手綱を引いた。
 車輪を一つ失った馬車はがくんと傾き、木枠が雪を噛む。
 残った車輪が軋み、馬が嘶いて前足を上げた。
 馬車は見えない壁に遮られたかのように、湖の手前で急停車した。

「そのままだ! その子とコートの上から動くな!」

 アレクセイは叫びながら馬車から飛び降り、座席の木枠を一撃で蹴り壊す。
 勢いのまま、割れた板を力任せに引き剥がし、それを地面に投げた。
 そして、肩にかけていたロープを手に取ると、二重の大きな輪を作る。
 その輪を板に載せて固定し、岸から氷の上へと押し出した。

「メリザンド、ロープを受け取れ。輪は肩から通し、脇で留めろ。立つな、そのままでいい」

 落ち着いた、しかしよく通る声だった。
 板が滑ってきて、コートの縁に当たって止まった。
 私は身を乗り出し、ロープの輪を掴んで肩から脇に通した。
 その間に、アレクセイはロープの端を馬車のくくり金具に結びつける。

「準備ができたら手を上げろ。子どもはコートの上に乗せておけ」

 私は、ロープが肩と脇にしっかり掛かっているのを確かめた。
 つづけて獣人の子どもを慎重に引き寄せ、濡れて凍りついた毛皮をそっと抱きしめる。
 小さなからだは、芯まで震えていて、もう暴れる力はない。

「いい? 今から引っ張られる。コートを離しちゃダメよ。ぎゅっと握ってて」

 子どもが小さく頷くのを確認する。
 いよいよだ。でも、もし引っ張った衝撃で氷が割れたら……?
 悪い想像がよぎり、指先が凍り付いたように動かない。

 私は、震える手で無意識に腰の小袋を握りしめた。
 布越しに、硬い感触が伝わってくる。
 さっき買ったばかりの、小さな銀色の狼。

(……助けて、アレクセイ様)

 心の中でその名を呼んで、顔を上げた。
 岸辺には、私を見つめるフロストブルーの瞳がある。
 大丈夫。あの人が、絶対に助けると言ってくれている。

 私は大きく息を吸うと、彼を信じて、合図の手を上げた。
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