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# act7.買い物デート
しおりを挟む車輪の音を響かせながら、馬車はアレクセイの邸を離れ、王宮の方角へと向かっていた。
今朝は膝の上で朝食を与えられてから、買い物に行こうと彼に馬車で連れ出されていた。
最高級の絹のドレス、宝石などが揃えられていたけど、着慣れていないから、地味なドレスを選んでしまった。
色も落ち着いた淡いブルーで、王宮の令嬢たちが好むような華やかさはない。
彼は恥ずかしいと思うだろうか。
それにしても、狼の供物として王宮を追い出されたのはたった三日前だ。
あの時は、てっきりとても怖い人だと思っていたし、慰み者にされると信じて疑っていなかった。
それなのに、正体はこんなに格好いい騎士だった。
大切に抱かれて、膝の上で朝食をあーんされて……好きなものは何でも買っていいと、デートに行くためにこの道を通るなんて。
それでも、王宮が目に入ると、嫌な記憶がフラッシュバックしてきた。
あの隅っこでずっと毒を浄化し続けていたこと。みんなに酷い言葉を吐かれていたこと。
私は隣に座っている彼のコートの裾をきゅっと握りしめた。
その途端、部屋での注意が頭をよぎった。
向かいに座っているジーンは無表情に真正面を向いている。
ここは……公の場よね。
私は慌てて裾から手を離した。
彼の体が動き、皮手袋を外したのが分かった。
その手が私の指を導き、コートの陰でそっと指を絡めた。
触れ合った瞬間、指先からとろりとした熱が流れ込んできた。
あのキスの時にも感じた、甘い痺れ。
それが血管を通って、じんわりと心臓まで届く。
ただ手を繋いでいるだけなのに、守られているような、体の中が満たされていくような感覚。
馬車が王宮の前を通り過ぎた。
(……あそこには今も、私を笑った令嬢たちがいて、私がいなくなった後の『ゴミ箱』を押し付け合っているのかしら)
王宮の毒は、私が吸い取ることで保たれていた。私という蓋を失ったあの美しい離宮が、いつまであの「清らかさ」を保っていられるのか、今の私にはどうでもいいことだった。
繋がった彼の手の熱が、私の冷え切っていた記憶を溶かしていく。 私は一度も振り返ることなく、光の差す大通りへと目を向けた。
彼から伝わる熱のおかげで、過去を震えずに直視できる。
馬車は右に曲がり、メインの通りを王都の中心部――カストレル通りへと進んでいった。
馬車が石畳を軋ませながら速度を落としていく。
そして、柱廊の連なる大きな通りの手前で静かに止まった。
馬車の後部ステップからカイが素早く飛び降り、周囲を見回している。
やがて、蝶番の音と共に扉が開いた。
こんな風に商店が並んでいる通りを、私は初めて見た。
柱廊の奥にはガラス張りのショーウィンドウがあり、布地や香の瓶が静かに光っている。
立ち止まって見つめていると、重量感のある足音が背後に響いた。アレクセイだ。
「行くぞ」
歩き出すとすぐ、通りに面した詰め所のほうから衛兵が駆けてきた。
「おおっ、これは失礼いたしました。アレクセイ殿。ご到着に気づかず、無礼を。お通りくださいませ」
私は慌てて礼をする衛兵や、周りの目線を注意深く観察した。
ここでのアレクセイの立ち位置は、かなり上位のようだ。
「ここはある程度の身分がないと入れない。私の知り合いがいるかもしれないが、君は気にしなくていい」
彼にエスコートされて歩いていると、カイが警護のためにさっと前に出た。
ジーンは私の斜め後ろを歩いている。
カストレル通りに並ぶ店のひとつ、異国の装飾品を並べたショーウィンドウの前で、私の足はふと止まった。
ガラスの目の象や、青い陶器、金糸の飾りのついた小袋などが並んでいる。
「わぁ……」
アレクセイが一歩前に出て、背後からそっと私の背に手を添える。
「入ってみるか?」
「はい」
店内に入ると、異国の香の匂いがした。
並んでいる服や小物はどれも見たことのないものばかりで興味をそそられた。
やがて店主が近づいてきた。黒髪に丸眼鏡をかけた、品のある青年だ。
「いらっしゃいませ、それは根付と申しまして、異国の品でございます。本来は帯につけるものですが、お守りにもなりますよ」
「可愛い、持ってみていいですか?」
「どうぞ」
ちょこんとしたうさぎや、猫、小鳥……。
どれも可愛らしいけれど、私の目は、端にあった一つの根付に吸い寄せられた。
それは、遠吠えをしているような、精巧な銀色の狼だった。
小さいのに、どこかふてぶてしい表情をしている。
(……誰かさんにそっくり)
私は無意識に、その狼をつまみ上げていた。
「おや、狼がお気に召しましたか? 女性のお客様には、こちらのうさぎの方が人気ですが」
「……ううん、これがいいの」
私の掌の中で、小さな狼が光っている。
「強そうで、魔除けになりそうだから」
もっともらしい理由をつけて振り返ると、アレクセイが少し驚いたように目を丸くしていた。
「……狼か? もっと可愛らしいものの方が、君には似合うと思うが」
「これがいいんです。……なんだか、目が離せなくて」
私がぎゅっと狼を握りしめると、彼は一瞬きょとんとして――それから、ふっと嬉しそうに目を細めた。
「そうか。気に入ったならそれを買おう。他にもほしいものがあったら好きに買っていいぞ」
「……ありがとうございます」
買ってもらった根付を、私は大事に腰に提げた小袋にしまった。
(……別に、誰かさんに似てる狼を、肌身離さず持っていたいわけじゃないからね!)
(これは……そう、あくまで『下僕第一号』よ。私が飼いならしてやるっていう、決意の象徴なんだから!)
心の中で必死に言い訳をして、熱くなる頬をごまかした。
その様子を見て、彼はなぜだかずっと上機嫌だった。
いくつか買い物をして店を出ると、ショーウィンドウの前に人影があった。
私は恐怖のあまり硬直した。
この男は……フェルナー! 王の側近の一人だ。なぜこんなところに?
後宮に居たときの、奴の下卑た笑い声や、投げつれられた酷い言葉が頭の中にこだまする。
「……おや。これは近衛騎士団長殿。こんな市井に、お珍しい」
まるで待ち構えていたかのような挨拶に、アレクセイは一拍の間をおいて、静かに答えた。
「フェルナー卿、お久しぶりです」
フェルナーは、ベルベットのダブレットに裏地が毛皮のマントを羽織っている。その成金趣味が、人となりを示しているようだった。
フェルナーの視線が、アレクセイの隣にいる私にねっとりと絡みつく。
背筋を悪寒が走った。
またあの見下した目線で、ゴミだの汚物入れだのと言うのだろうか。
だが驚いたことに、彼は私の顔を見て、媚びるような愛想笑いを浮かべたのだ。
「これは……奥様ですかな。お初にお目にかかります。とてもおきれいな方ですね。あの女はもう処分されたので? それとも夜にこっそりお楽しみですかな」
私は二の句が告げずに、口を小さく開けたままだった。
アレクセイの口元に、今まで見たこともないように敵意剥き出しの笑いがのぼった。
「……彼女は私の妻だ。あなたに侮辱されるいわれはない」
フェルナーの表情が、貼り付けたような媚びから徐々に驚愕へと変わっていく。
私だと気づいたようだったが、それでもまだ信じられないのか、大きく見開いた目の中で瞳がぐらぐらと揺れている。
やがて、フェルナーの表情は一気に蔑みの色を増した。いつもの嫌な顔だ。
「これは驚いた。その女……後宮の『生きた汚物入れ』ではありませんか。わざわざゴミの回収に出向かれたとは。騎士団長殿も物好きですな」
「汚物入れ」投げつけられた剥き出しの悪意に、私の指先が凍りついたように震えた。
十年間、毎日聞かされてきた言葉。
私は動けずに、棒立ちになるしかなかった。
(……やっぱり、こんなに豪華で綺麗な通りに、私は場違いなんだわ)
俯く私の視界に、フェルナーの磨き抜かれた靴が見える。
彼がさらに追い打ちをかけようと口を開いた、その瞬間だった。
「――フェルナー」
アレクセイの声が、氷点下のように冷たく響いた。
空気が凍り付く。隣にいた私でさえ肌が粟立つほどの、濃密で、鋭利な殺気。
一瞬、彼から巨大な銀色の影が立ち上り、フェルナーを喰らおうと顎を開いたように見えた。
「我が妻を、今、なんと呼んだ。……その薄汚い舌、今ここで根元から引き抜いてやろうか」
「あ、いや、これは……失礼……!」
彼の手は、今にもフェルナーの喉笛を噛みちぎらんばかりに硬く握りしめられている。
フェルナーは腰を抜かさんばかりに震え、逃げるように走り去っていった。
嵐のような沈黙が流れる。
アレクセイは荒い息をつき、震える私の肩を、痛ましげに、しかし壊れ物を扱うような優しさで抱き寄せた。
「……すまない。あんな下衆な言葉を聞かせてしまった。本来なら、その場で舌を切り落としてやるべきだった」
私は彼の胸に顔を埋めたまま、小さく首を振った。
(私の価値は、あの人たちの言葉では決まらない。こんなに大切にしてくれる人がいるんだもの……もっと、強くならなきゃ。次は言い返せるように)
「大丈夫です……負犬の遠吠えなんて気になりません」
そう言って笑顔を作ると、彼は少しだけ救われたように目を細めた。
(……でも狼は格好いいですけどね)
「でも、なんで最初は私だと気づかなかったんでしょうね。シンプルなドレスを着ているのに」
私が後宮を離れてからまだ三日しか経っていない。そんなに変わったとは思えない。
だが、アレクセイは満足げに私の髪を撫でた。
「王宮の毒を吸わされていたせいで、君の髪や肌はくすんでいた。だが、私の家にある浄化装置のおかげで、体質が改善されてきたんだ。体内の毒は浄化されて、もうすぐ毒を吸う体質も完治する」
(……思っていたよりもかなり強力な浄化装置みたい。一体、何なのかしら。魔法具?)
「今は君本来の……美しさが……か、輝くばかりで……だから、フェルナーが別人だと思ったのも無理はない」
アレクセイは耳を赤く染めながら、それでも私を真っすぐに見て微笑んでくれた。
最初に思っていた「場違い」な不安は溶けるように消えていく。
(……大好き……私の狼さん)
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