婚約破棄?悪役令嬢の定休日を作ろうと思ってたんですが。

小梅りこ

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「……本当に行ったのか? あの女、本当に一言も弁明せずに、サインだけして帰ったのか?」


静まり返ったパーティー会場で、リュカ王子が間の抜けた声を上げた。


その手には、先ほどミカルが爆速でサインした婚約解消合意書が握られている。
インクがまだ乾ききっていないその紙面には、迷いのない、あまりにも力強く美しい署名が刻まれていた。


「はい、殿下。ミカル様は先ほど、時速四キロほどの優雅かつ迅速な歩調で会場を後にされました。現在、馬車に乗り込んでいる頃かと思われます」


隣でギルバートが、懐中時計を見ながら淡々と報告する。


「おかしいだろう! あいつは私のことが好きで好きでたまらなくて、その執着心ゆえにセシルに嫌がらせをしていたんじゃなかったのか!? 『行かないでリュカ様!』とか、『その泥棒猫を今すぐ追い出して!』とか、そういう……こう、ドラマチックな展開があるはずだろう!」


「殿下、それは演劇の見すぎです。あるいは、ミカル様に対する過大評価かと」


「過大評価だと!? あんなに私にベタベタして……いや、ベタベタはしていなかったか? いつも私のスケジュールを管理して、無駄な夜会は切り捨てろと口うるさく……」


リュカ王子は思い返す。
確かにミカルは、彼に対して甘い言葉を囁いたことなど一度もなかった。
代わりに彼女が口にするのは常に「効率」「時間」「生産性」という、およそ恋人同士には似つかわしくない単語ばかりだった。


一方、会場の外。
ミカルは待たせていた馬車の前で、御者の腕を掴んで激しく揺さぶっていた。


「さあ、出してちょうだい! 予定より二分早いですわ! この二分があれば、屋敷に着いてからお茶の一杯も多く飲めますもの!」


「お、お嬢様、そんなに急がれなくても……。パーティーはまだ始まったばかりでは?」


「終わりましたのよ、私の婚約者期間(シーズン)は! これからはオフシーズンですわ! さあ、全速力で公爵邸へ向かって頂戴。途中の信号……は、この世界にはありませんでしたわね。とにかく、馬の限界に挑むのですわ!」


「は、はいっ!」


馬車が石畳を叩いて猛烈な勢いで走り出す。
座席に深く腰掛けたミカルは、ようやく重いドレスのコルセットを少しだけ緩めた。


「ふぅ……。ようやく、ようやくですわ。あの、中身がスッカスカの王子様の予定に合わせて、一ミリも興味のない刺繍やダンスの練習をする日々が終わったのですわ……!」


彼女の脳内には、今、壮大な勝利のファンファーレが鳴り響いていた。


ミカル・ド・ラ・ヴァリエール。
彼女は、生まれながらにして「悪役」のような鋭い美貌と、周囲を威圧する高笑いを持っていた。
しかしその本質は、ただの「徹底した合理主義者」である。


彼女にとって、王子との婚約は「公爵家としての義務」という名の巨大なタスクだった。
それを完遂するために、彼女は「悪役令嬢」という役割を完璧に演じてきたのだ。
そうすれば、王子が自分に愛想を尽かし、いつか向こうから婚約を破棄してくれると計算して。


「計算通り……。いえ、セシル様という不確定要素(イレギュラー)のおかげで、予定より一年も早くプロジェクトが完了しましたわ。彼女には感謝の印として、後で最高級の茶葉でも送っておきましょう」


ミカルは手帳を取り出し、「婚約解消:完了」の項目に力強く横線を引いた。
その瞬間、彼女の心は羽が生えたように軽くなった。


だが、彼女はまだ知らない。
自分が「効率化」しすぎたせいで、捨てたはずの王子や、周囲の人間たちが逆に彼女のことが気になり始めてしまっていることに。


パーティー会場では、セシルが潤んだ瞳で入り口を見つめていた。


「ミカルお姉さま……。あんなにかっこよく去っていくなんて……。私もあんな風に、迷いなく自分の道を突き進む女性になりたいです……!」


「セシル? 君、泣いているのか? やはりミカルに何かひどいことを言われたんだな!?」


リュカ王子が慌てて駆け寄るが、セシルはそれを無視して、ミカルが去っていった方向へ手を伸ばした。


「殿下、私、決めました。私……ミカルお姉さまを追いかけます!」


「えっ、今なんて?」


「お姉さまのあの、無駄のない動き、冷徹なまでの判断力! あれこそが真の貴婦人です! 私、お姉さまの弟子になりますわ!」


「待て待て待て! 君は私と結ばれるんじゃなかったのか!?」


王子の叫びも虚しく、セシルはパーティーの主役という立場を放り投げ、ドレスの裾をまくり上げて走り出した。


その光景を横目で見ていたギルバートは、ふっと口角を上げた。


「……定休日、ですか。面白いことを仰る。しかし、ミカル様。貴女ほどの有能な人材を、この国が放っておくはずがないでしょうに」


ギルバートは、ミカルが残していった合意書のサインを指でなぞった。


「さて、私も少し、予定を変更しましょうかね」


夜の静寂を切り裂いて走る馬車の中で、ミカルは盛大なくしゃみをした。


「あら、誰か私の悪口でも言っていますの? まあいいですわ。悪口を言われるのも悪役令嬢の仕事のうち……いえ、今日からはその仕事も定休日でしたわね! オーホッホッホ!」


彼女の高笑いが、王都の夜空に響き渡った。
それは断罪された令嬢の悲鳴ではなく、自由を勝ち取った女の、凱旋の雄叫びであった。
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