婚約破棄?悪役令嬢の定休日を作ろうと思ってたんですが。

小梅りこ

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「……ミカル様。一つ、私の計算外の事態が発生しました」


汚職貴族の連行が終わり、会場にようやく「本来の」舞踏会の音楽が流れ始めた頃。
ギルバート様が、困ったような、それでいて挑戦的な笑みを浮かべて私の前に立った。


「なんですの? まだ隠し口座の解読が終わっていないとでも? それなら私が三秒で――」


「いえ。……この後のプログラムに組まれている『勝利のダンス』、主役である私たちが踊らないのは、会場の士気(モチベーション)を著しく低下させるという統計が出ました」


ギルバート様は優雅に右手を差し出し、私の目を真っ直ぐに見つめた。


「……ダンス? ギルバート様、正気かしら。ダンスとは、一定のテンポに合わせて無意味に円を描き、摩擦係数を無視して床を滑る、究極の非効率運動ですわよ? その時間があれば、あと三通は行政改革の通達が書けますわ」


「ええ、分かっています。ですが、これは『王国の安定を視覚的に提示する』という高度な政治的パフォーマンスです。……それに、私はただ、貴女を独占して回りたいだけだと言ったら?」


「……っ! 貴方は本当に、そういう非論理的な台詞を息を吐くように仰いますわね」


私は毒づきながらも、彼の手の上にそっと自分の手を重ねた。


「よろしい。……ただし、私のステップは爆速ですわよ。遅れないようについてきてくださいませ」


「望むところだ。……演奏家たちに、テンポを二十パーセント上げるよう合図しておきました」


私たちはホールの中心へと進み出た。
周囲の貴族たちが、息を呑んで道を開ける。
そこには、かつての「冷酷な悪役令嬢」と「鉄面の宰相」ではなく、火花を散らすような熱量を持った一対の男女がいた。


音楽が始まった。
バイオリンの旋律が、通常よりも鋭く、激しく空気を震わせる。


「……左へ三歩、旋回角度は九十度。完璧な慣性移動ですわね、ギルバート様」


「貴女のリードが正確すぎるからです。……ミカル様、無駄な動きが一切ないダンスというのは、これほどまでに美しいものだったのですね」


私たちは、まるで精密機械が噛み合うように、激しいテンポのワルツを踊り始めた。
私のドレスの裾が、計算された放物線を描いて宙に舞う。


「オーホッホッホ! 見て御覧なさい、ギルバート様! このステップによるカロリー消費効率、心肺機能への適度な負荷! ダンスも考えようによっては、優れた全身運動(ワークアウト)ですわね!」


「ええ。……そして、こうして貴女の腰を引き寄せるたびに、私の心拍数が論理的な限界を超えていく。……これは、運動のせいだけではないようですよ」


ギルバート様の腕に力がこもる。
至近距離で見つめ合う視線が、火花を散らす。


その時。


「……っ! ミカル! ミカルゥゥゥ! あんな、あんな楽しそうに踊る君なんて見たことがない!」


ホールの壁際。
柱の陰から、リュカ殿下がボロボロのハンカチをキリキリと噛み締めながら、涙目でこちらを睨んでいた。


「君はいつも、私と踊る時は『殿下、足さばきがコンマ二秒遅れています。その分、私の可処分時間が奪われているのですよ』と冷たく言い放っていたのに! なぜギルバートとは、あんなに嬉しそうに笑っているんだ!」


「殿下。……それは、ギルバート様のステップが私の計算と完全に同期(シンクロ)しているからですわ! 貴方のダンスは、バグの多いプログラムと踊っているようで、ストレス以外の何物でもありませんでしたもの!」


私は回転しながら、殿下に向かって容赦ない言葉を投げかけた。


「ひどい! バグ!? 私の華麗なステップをバグ呼ばわりするなんて! ああ……ギルバートめ、私の婚約者を奪っただけでなく、ダンスの相性まで最適化しおって……!」


殿下は崩れ落ち、再びハンカチを噛み締めた。
その隣で、セシル様が「殿下、見苦しいですわよ。それより、あの二人の空気抵抗を考慮した衣装のなびき方を見てください! あれこそが真の愛の幾何学ですわ!」と、熱心にスケッチを取っている。


「……ミカル様。殿下がこちらを執拗に見ていますが、無視して集中してください。……次は、私が貴女をリフトします」


「リフト? 私の体重と貴方の腕力を考えれば、滞空時間は約一点二秒。……承知いたしましたわ!」


ギルバート様が私の腰を抱え、軽やかに宙へと持ち上げた。
シャンデリアの光を背に受けて、私は一瞬、世界の中心で静止したような感覚に陥った。


「……綺麗だ、ミカル」


着地した瞬間、ギルバート様が私の耳元で囁いた。
それは、どんな数式よりも私の理性を狂わせる、甘い猛毒だった。


「……っ。……評価を保留しますわ。今のリフト、着地時の振動がコンマ一ミリほどズレていましたもの」


「厳しいですね。……では、次の曲で修正(リテイク)しましょうか」


「ええ。完璧なシンクロ率に達するまで、何度でもお付き合いして差し上げますわ!」


私たちは、鳴り止まない拍手と、王子の絶望の悲鳴を背景に、夜が明けるまで踊り続けた。
非効率なはずのダンスが、この夜だけは、世界で最も「意味のある時間」に書き換えられていた。
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