婚約破棄、万々歳!隣国の強面公爵(節約家)に拾われました

小梅りこ

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翌朝、私はアルマンド公爵邸の門の前に立っていた。
手元には、昨日までの豪華な馬車も、大勢の使用人もいない。
あるのは、最小限の着替えと、資産を換金して得た大量の金貨が入った(重い)ポシェットだけだ。


「リウ……本当に、一人で行ってしまうのか?」


父が門の影から、今にも泣き出しそうな顔でこちらを見ている。


「お父様、しつこいですわ。私は自由を求めて旅立つのです。それに、この屋敷に留まっていては、またカイル様のような無駄遣いの天才に捕まってしまいますもの」


「せめて、護衛の一人くらい……」


「護衛? そんな人件費、どこにありますの? 私には、この護身用の『特売品の重いフライパン』がありますから大丈夫です」


私は背中のリュックに差し込まれた鉄製フライパンを叩いて見せた。
これは鉄分補給もできて、なおかつ鈍器としても優秀な一品だ。


私は泣き縋る父とニーナを振り切り、王都から出る定期乗合馬車に飛び乗った。
隣国の国境近くにある商業都市『マーケット・シティ』までは、馬車で数日の距離だ。


「ふう。やっぱり公共交通機関は安くて最高ね」


数日後。
私は目的地であるマーケット・シティに到着した。
ここは各国の物資が集まる、文字通りの『商いの街』。
私の節約魂が、この街の熱気に触れて激しく燃え上がるのを感じる。


「……おや。あの看板は……!」


街を歩き始めてすぐ、私の視力五.〇(自称)の目が、ある一枚のチラシを捉えた。


『本日限定! 伝説の地鶏「黄金鶏」の卵、タイムセール! 一パック限定一個、驚愕の九〇%オフ!』


脳内の計算機が、光の速さで答えを弾き出す。
黄金鶏の卵は、一つで通常の卵十個分の栄養価があると言われる高級品。
それが九〇%オフということは……実質、タダみたいなものじゃない!


「これは……行かなければ、節約家としての名が廃るわ!」


私はドレス(動きやすいように裾を自力でカットしたもの)をなびかせ、路地裏を猛然とダッシュした。
目的地は、街の隅にある小さな商店だ。


「ハァ、ハァ……間に合った! まだ一個残ってるわ!」


店のカウンターに置かれた、最後の一パック。
私は迷わず手を伸ばした。
だが、その瞬間。


私の手の上に、ゴツゴツとした、岩のような大きな手が重なった。


「……あ?」


「……ん?」


私と相手の視線が、卵を挟んで空中で激突する。
見上げれば、そこには「この世の終わり」を体現したような、恐ろしい顔の男が立っていた。


逆立った黒髪。鋭すぎる眼光。
そして右目の上に刻まれた深い傷跡。
漆黒のコートを纏ったその姿は、騎士というよりは、戦場帰りの処刑人といった趣だ。


普通なら、悲鳴を上げて逃げ出すレベルの迫力。
しかし、私の目は彼の「顔」ではなく、彼が握っている「卵」に釘付けだった。


「あの。これ、私が先に触れましたわよね?」


私が冷ややかに告げると、男の眉間に深い皺が寄った。
威圧感が増し、周囲の買い物客が蜘蛛の子を散らすように逃げていく。


「……いや、俺の方がコンマ数秒速かったはずだ。この指の掛かり具合を見ろ。完璧なホールドだ」


男の声は地響きのように低く、しかし驚くほど冷静だった。


「指の掛かり具合? 笑わせないでください。私の方は、すでに卵の鮮度を透過して、中心の黄身の弾力まで指先で感じ取っていますわ。これは私の卵になるために生まれてきた卵です!」


「ほう、言うな。だがこの卵は、俺が計算した今日の最低必要栄養素を補うための、ラストピースなんだ。譲るわけにはいかない」


「計算……? あなた、もしかして栄養価とコストパフォーマンスを天秤にかけて、この卵を選んだとおっしゃるの?」


「当然だ。この価格でこのタンパク質量。他を当たるのは時間の無駄だ」


私は目を見開いた。
この男……私と同じ、合理的節約家の匂いがする。
しかし、同族だからといって譲るほど、私は甘くない。


「いいですか、強面さん。あなたのようなガタイのいい男性なら、そこらの安売り肉を大量に食べればいいでしょう? この卵は、繊細な家計管理を行う私にこそ相応しいのです!」


「ガタイがいいからこそ、効率的に栄養を摂取せねばならんのだ。……あと、俺は『強面さん』ではない。アリステアだ」


「私はリウですわ。さあ、アリステアさん。その手を離しなさい! じゃないと、この『鉄分補給用フライパン』の出番になりますわよ!」


「……やってみるがいい。俺の剣の錆にするには、そのフライパンは少し安物すぎるようだがな」


一触即発。
卵を巡る、公爵令嬢(元)と隣国の公爵(実は)の戦いが、今まさに火蓋を切ろうとしていた。


その時。


「あーっ! お客さんたち! 困るよ、そんなに卵を強く握ったら割れちゃうよ!」


店主の悲鳴が響き渡った。
私とアリステアさんは、ハッとして手元を見る。
二人で全力で握り合っていた卵のパックが、メキメキと音を立てているではないか。


「「あっ……!!」」


私たちは、まるで示し合わせたかのように、同時に手を離した。
もし割れてしまったら、九〇%オフの恩恵がゼロになる。
それどころか、買い取りという名の「無駄な支出」が発生してしまう……!


「……一触即発の事態を避けるため、妥協案を提示する」


アリステアさんが、険しい顔のまま低い声で言った。


「妥協案?」


「ああ。このパックには卵が六個入っている。三個ずつ分けないか。もちろん、代金はきっちり折半だ」


私は数秒間、沈黙した。
一個単位での購入は不可だが、折半なら……確かに、無駄な争いを避けて目的の品を手に入れられる。
それに、この男とこれ以上関わって時間を浪費するのも、タイムパフォーマンス(タイパ)が悪い。


「……いいでしょう。その提案、飲みますわ」


「交渉成立だな」


私たちは、店主の怯えた視線を無視して、レジで一銅貨単位まで正確に割り勘を済ませた。


店の外に出た後、アリステアさんは三個の卵を宝物のように抱え、私の方をじろりと見た。


「……お前、リウと言ったか。その節約に対する執念、ただの令嬢ではないな」


「当たり前ですわ。私は昨日、人生の無駄をすべて切り捨ててきたところですから」


「……フッ、面白い。俺の領地にも、お前のような『無駄を嫌う者』がいれば、少しは財政が楽になるのだがな」


彼はそう言い残すと、颯爽と歩き去っていった。


(なんなの、あの失礼な強面……。でも、確かにあの卵への眼差し、本物だったわね)


私は手に入れた三個の卵を見つめ、少しだけ胸が高鳴るのを感じていた。
まさか、この翌日に彼が「公爵」として私の前に現れ、度肝を抜くようなスカウトをしてくることになるとは、まだ知る由もなかった。
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