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「……眩しい。光という名の暴力が、私の安眠を無慈悲に引き裂いていく……」
私は重い瞼を数ミリだけ持ち上げ、呪詛のような呟きを漏らしました。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた天蓋付きのベッドではなく、磨き上げられた重厚なマホガニーの机。
そして、壁一面を埋め尽くす膨大な蔵書と、窓から差し込む容赦ない朝日でした。
「おはよう、ナタリー。よく眠れたかい? 君がソファーから一ミリも動かないから、ソファーごとここまで運ばせていただいたよ」
爽やかな声の方向に視線を向ければ、そこには朝から完璧な身なりで書類を捲るサイラス様がいました。
私は首だけを動かして、彼をじろりと睨みつけます。
「サイラス様。ここは、どこですか。私の楽園(寝室)はどこへ消えたのですか」
「ここは私の執務室だ。君が『部屋から出るのが面倒』だと言うから、仕事場の方を君に近づけてみたんだ。合理的だろう?」
「暴論です。これは拉致、あるいは誘拐、あるいは『安眠の自由』に対する重大な人権侵害です」
「ははは、相変わらず語彙が豊富だ。だが、ちょうど良かった。君の知恵を少しだけ貸してほしい」
サイラス様は、一枚の大きな地図を私の目の前に広げました。
そこには、この国の街道と、いくつかの赤い印が書き込まれていました。
「今、我が国の物流が滞っていてね。特にこの北部の鉱山からの輸送が遅れている。役人たちは『道が狭いから』とか『魔物が出るから』と報告してくるが……君ならどう見る?」
「……サイラス様。私は今、空腹と寝不足で、脳細胞がストライキを起こしています。そんな国家機密に関わるような話、一文字も頭に入りません」
「おや、そうか。残念だ。実は今日のおやつには、隣町で評判の『雲の上よりもふわふわなシフォンケーキ』を用意させようと思っていたんだが……。輸送が滞っているせいで、届くのは三日後になりそうなんだ」
私は、カッと目を見開きました。
「……なんですって? 私のシフォンケーキが、そんな低俗な理由で足止めを食らっているのですか?」
「ああ。役人たちの『完璧な計画書』によれば、三日後が最短だそうだ」
私はふらふらと立ち上がり(奇跡的なことです)、机の上の地図を凝視しました。
「……おどきなさい、サイラス様。私の食欲を妨げるものは、たとえ王国の法律であっても容赦しませんわ」
私は震える指先で、地図上の一点を指差しました。
「ここ。この検問所。なぜ、全ての馬車をここで止めているのですか?」
「それは、密輸を防ぐための厳重な検査が必要だからだ」
「無能ですね。検査なんて、重さを量れば一瞬で終わるはずですわ。積載重量と申告書類が一致していれば、中身をひっくり返す必要なんてありません。不一致の馬車だけを脇に避けて、他は通せばいい。それを律儀に一台ずつ全部開けているから、ケーキが腐るのです!」
「……なるほど。重量検査によるスクリーニングか」
「それからここ! この迂回路! 『魔物が出る』と言って避けていますが、その魔物の習性を調べましたの? この季節、その種は繁殖期で山の奥深くに引きこもっているはず。今なら直進した方が圧倒的に早いし安全です」
「……待て、なぜ君がそんな魔物学の知識を?」
「図書室まで歩くのが面倒で、手近にあった古い図鑑を枕代わりに読んでいただけですわ。……あぁ、もう! とにかく! このルートで、検査はこの方式で。今すぐ伝令を飛ばしてください。一刻も早く、私のケーキをここに運ばせるのです!」
私は一気にまくしたてると、電池が切れたように再びソファーへ倒れ込みました。
「……終わりました。私は寝ます。ケーキが届いたら、枕元に置いておいてください。香りで起きますから」
サイラス様は、呆然とした様子で地図と私を交互に見ていました。
しかし、すぐにその顔には邪悪なほどに明るい笑みが浮かびました。
「……凄いな。君が今言ったことは、我が国の物流改革における数十年分の課題を一瞬で解決する答えだぞ」
「……知りません。私はただ、ケーキが食べたいだけです……」
「ふっ、分かった。すぐに手配しよう。君の『ケーキへの執念』が、この国の経済を救うことになるとはね」
サイラス様は、私の頭を優しく、しかしどこか満足げに撫でました。
「ナタリー。君をこの執務室に連れてきて正解だった。これからも、君が『面倒くさい』と思うたびに、この国は良くなっていくようだ」
「……悪魔。搾取。労働反対……」
私は毛布を頭まで被り、再び深い眠りへと落ちていきました。
数時間後、本当に届いたシフォンケーキの味は格別でしたが。
それを一口食べるごとに、サイラス様から「次はこの港の関税についてなんだが……」と書類を差し出されることになったのは、私の計算外の悲劇でした。
(……失敗したわ。有能だと思われると、さらに労働が増えるという負のスパイラル……。明日からは、もっと徹底的に『ポンコツ』のふりをしなくては……)
私の決意とは裏腹に、王宮内では「サイラス殿下が拾ってきた令嬢は、一言で国を動かす伝説の賢者だ」という噂が、凄まじい速さで広まり始めていたのでした。
私は重い瞼を数ミリだけ持ち上げ、呪詛のような呟きを漏らしました。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた天蓋付きのベッドではなく、磨き上げられた重厚なマホガニーの机。
そして、壁一面を埋め尽くす膨大な蔵書と、窓から差し込む容赦ない朝日でした。
「おはよう、ナタリー。よく眠れたかい? 君がソファーから一ミリも動かないから、ソファーごとここまで運ばせていただいたよ」
爽やかな声の方向に視線を向ければ、そこには朝から完璧な身なりで書類を捲るサイラス様がいました。
私は首だけを動かして、彼をじろりと睨みつけます。
「サイラス様。ここは、どこですか。私の楽園(寝室)はどこへ消えたのですか」
「ここは私の執務室だ。君が『部屋から出るのが面倒』だと言うから、仕事場の方を君に近づけてみたんだ。合理的だろう?」
「暴論です。これは拉致、あるいは誘拐、あるいは『安眠の自由』に対する重大な人権侵害です」
「ははは、相変わらず語彙が豊富だ。だが、ちょうど良かった。君の知恵を少しだけ貸してほしい」
サイラス様は、一枚の大きな地図を私の目の前に広げました。
そこには、この国の街道と、いくつかの赤い印が書き込まれていました。
「今、我が国の物流が滞っていてね。特にこの北部の鉱山からの輸送が遅れている。役人たちは『道が狭いから』とか『魔物が出るから』と報告してくるが……君ならどう見る?」
「……サイラス様。私は今、空腹と寝不足で、脳細胞がストライキを起こしています。そんな国家機密に関わるような話、一文字も頭に入りません」
「おや、そうか。残念だ。実は今日のおやつには、隣町で評判の『雲の上よりもふわふわなシフォンケーキ』を用意させようと思っていたんだが……。輸送が滞っているせいで、届くのは三日後になりそうなんだ」
私は、カッと目を見開きました。
「……なんですって? 私のシフォンケーキが、そんな低俗な理由で足止めを食らっているのですか?」
「ああ。役人たちの『完璧な計画書』によれば、三日後が最短だそうだ」
私はふらふらと立ち上がり(奇跡的なことです)、机の上の地図を凝視しました。
「……おどきなさい、サイラス様。私の食欲を妨げるものは、たとえ王国の法律であっても容赦しませんわ」
私は震える指先で、地図上の一点を指差しました。
「ここ。この検問所。なぜ、全ての馬車をここで止めているのですか?」
「それは、密輸を防ぐための厳重な検査が必要だからだ」
「無能ですね。検査なんて、重さを量れば一瞬で終わるはずですわ。積載重量と申告書類が一致していれば、中身をひっくり返す必要なんてありません。不一致の馬車だけを脇に避けて、他は通せばいい。それを律儀に一台ずつ全部開けているから、ケーキが腐るのです!」
「……なるほど。重量検査によるスクリーニングか」
「それからここ! この迂回路! 『魔物が出る』と言って避けていますが、その魔物の習性を調べましたの? この季節、その種は繁殖期で山の奥深くに引きこもっているはず。今なら直進した方が圧倒的に早いし安全です」
「……待て、なぜ君がそんな魔物学の知識を?」
「図書室まで歩くのが面倒で、手近にあった古い図鑑を枕代わりに読んでいただけですわ。……あぁ、もう! とにかく! このルートで、検査はこの方式で。今すぐ伝令を飛ばしてください。一刻も早く、私のケーキをここに運ばせるのです!」
私は一気にまくしたてると、電池が切れたように再びソファーへ倒れ込みました。
「……終わりました。私は寝ます。ケーキが届いたら、枕元に置いておいてください。香りで起きますから」
サイラス様は、呆然とした様子で地図と私を交互に見ていました。
しかし、すぐにその顔には邪悪なほどに明るい笑みが浮かびました。
「……凄いな。君が今言ったことは、我が国の物流改革における数十年分の課題を一瞬で解決する答えだぞ」
「……知りません。私はただ、ケーキが食べたいだけです……」
「ふっ、分かった。すぐに手配しよう。君の『ケーキへの執念』が、この国の経済を救うことになるとはね」
サイラス様は、私の頭を優しく、しかしどこか満足げに撫でました。
「ナタリー。君をこの執務室に連れてきて正解だった。これからも、君が『面倒くさい』と思うたびに、この国は良くなっていくようだ」
「……悪魔。搾取。労働反対……」
私は毛布を頭まで被り、再び深い眠りへと落ちていきました。
数時間後、本当に届いたシフォンケーキの味は格別でしたが。
それを一口食べるごとに、サイラス様から「次はこの港の関税についてなんだが……」と書類を差し出されることになったのは、私の計算外の悲劇でした。
(……失敗したわ。有能だと思われると、さらに労働が増えるという負のスパイラル……。明日からは、もっと徹底的に『ポンコツ』のふりをしなくては……)
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