え、いいんですか?婚約破棄、最高じゃないですか!

小梅りこ

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「お嬢様、申し訳ございません! 急停車いたします!」


御者の悲鳴に近い声と共に、馬車がガクンと大きく揺れて停止した。

私は慣性の法則に従って前のめりになりかけた体を、日頃の姿勢の良さと体幹でなんとか支える。

危ないところだった。

もし体勢を崩して、ドレスの装飾である高価な真珠が飛び散りでもしたら、その損害賠償を誰に請求すべきか瞬時に計算しなければならないところだった。


「何事? まさか、追っ手?」


私は窓のカーテンを少しだけ開けて外を覗く。

ジュリアン殿下が兵士を差し向けてきたのだろうか。

「金貨2000枚は払えん! そのメモを返せ!」と実力行使に出る可能性はゼロではない。

もしそうなら、こちらは「王族による公爵令嬢襲撃事件」として、さらに慰謝料を上乗せするまでだ。

私は戦闘態勢(主に口撃の準備)を整え、馬車の扉を開けた。


「何なの、騒々しい……」


「お姉様ーーーっ!!」


「……は?」


扉を開けた瞬間、ピンク色の塊が視界いっぱいに飛び込んできた。

ドスッ! という鈍い音と共に、私の腹部に強烈なタックルが決まる。

ぐえ、と淑女らしからぬ声が出そうになるのを堪え、私はその「塊」を見下ろした。

ふわふわのピンクブロンド、潤んだ大きな瞳、そして小動物のような愛くるしい顔立ち。

間違いなく、元婚約者の浮気相手であり、この物語(?)の正ヒロインであるリリィ男爵令嬢だった。


「……リリィ様?」


「はぁ、はぁ、やっと……やっと追いつきましたぁ……!」


彼女は私の腰にしがみついたまま、荒い息を吐いている。

ちょっと待ってほしい。

ここは王城から馬車で10分ほど走った公道だ。

私の馬車は、御者に「全力で」と命じたため、かなりのスピードが出ていたはずだ。

それを、走って追いかけてきたというのか?

ドレスで?

ヒールで?

この短足で?


「……リリィ様。貴女、馬より速いのですか?」


「えへへ、私、田舎育ちなので足腰には自信があるんです! 実家の牧場では、よく脱走した子牛を追いかけて捕まえてましたから!」


「子牛……」


なるほど。

ジュリアン殿下は彼女のことを「守ってあげたい儚い花」と称していたが、その実態は「野生の猛獣」だったらしい。

殿下の見る目の無さに、改めて呆れると同時に、少しだけ同情した。

この体力オバケに付きまとわれたら、逃げるのは容易ではないだろう。


「それで? なぜ私を追いかけてきたのですか? まさか、殿下の命令で『その性悪女を連れ戻せ』とでも?」


私は冷ややかに問いかけた。

もしそうなら、彼女も同罪だ。

共犯者として、まとめて請求書の宛名に加えてやる。

しかし、リリィ様は私の予想を裏切り、ぷるぷると首を横に振った。


「違います! 私、お姉様が心配で……!」


「心配?」


「だって、あんなひどいこと言われて……婚約破棄だなんて……。お姉様、本当は泣きたいんですよね? 無理して笑ってるんですよね?」


彼女は私の手をギュッと握りしめ、上目遣いで訴えかけてくる。

その瞳は純粋そのもので、一点の曇りもない。

……ああ、これだ。

私が彼女を苦手とする最大の理由。

彼女は「悪意」で動いているのではない。

100%純度のお節介と、自分の価値観が絶対的に正しいという思い込みで動いているのだ。

「婚約破棄された女性は、必ず傷ついているはずだ」

「だから私が慰めてあげなきゃ」

「そうすれば、私たちは仲良くなれる(ついでに私の好感度も上がる)」

そんな短絡的な思考回路が透けて見える。


「リリィ様。お言葉ですが、私は微塵も傷ついておりません。むしろ、不良債権を処理できた喜びに打ち震えているところです」


「またまたぁ! 強がらなくていいんですよ? 私、わかります。お姉様のその冷たい態度は、孤独の裏返しなんですよね!」


「……言葉が通じないというのは、これほどまでにストレスが溜まるものなのね」


私はこめかみを押さえた。

論理が通用しない相手との交渉ほど、コストパフォーマンスの悪いものはない。

ここは早々に切り上げるべきだ。


「それで? 具体的に私に何をしろと? 私の馬車に乗り込んで、殿下の元へ連れ戻そうというのですか?」


「いいえ! 私、お姉様についていきます!」


「はい?」


「ジュリアン様、なんか最近うざ……いえ、少し重いというか。毎日毎日『愛してる』とか『君は天使だ』とか、同じことばかり言ってて飽きちゃうんです。それより、お姉様の方がカッコよくて素敵です!」


「…………」


聞き捨てならない単語が聞こえた気がする。

うざい?

飽きた?

あの「真実の愛」は、どうやら一方通行の熱量だったらしい。

ジュリアン殿下、哀れなり。


「リリィ様。貴女は殿下と結婚して、王妃になるつもりなのでしょう? 私に関わっている暇があったら、王妃教育の予習でもなさい」


「えー、勉強は嫌いですぅ。それに、王妃とか面倒くさそうだし。私はただ、キラキラしたお城で美味しいケーキが食べたかっただけで……」


「……正直すぎるでしょう」


眩暈がした。

この娘、ある意味で私以上に欲望に忠実だ。

ただ、私と違って計画性も理性もない。

ただの「本能で生きる小動物」だ。

こんなのを公爵家に連れて帰ったら、私の平穏な資産形成ライフが崩壊する。

屋敷の食料庫を食い尽くされる未来しか見えない。


「リリィ様。残念ですが、私の馬車は定員オーバーです」


「えっ? でも、お姉様一人しか乗ってないじゃ……」


「私の他に、目に見えない『これから稼ぐ予定の札束』が山ほど乗っておりますので。貴女が乗るスペースはありません」


「えぇ~……」


「それに、貴女が今すべきことは私を追いかけることではありません。殿下の元へ戻り、彼の傷ついた心を癒して差し上げることです。そうすれば、殿下は貴女に新しいドレスや宝石を買ってくださるでしょう」


「!! 宝石! ドレス!」


リリィ様の目が、現金な輝きを放った。

扱いやすい。

扱いやすすぎて、逆に怖い。


「そうです。殿下は今、寂しがっています。チャンスですよ? 今すぐ戻れば、限定のスイーツも食べ放題かもしれません」


「限定スイーツ……! わ、わかりました! 私、戻ります!」


リリィ様はパッと私の手から離れ、馬車を飛び降りた。

そして、「ジュリアン様~! ケーキ~!」と叫びながら、来た道を猛ダッシュで戻っていく。

その速さたるや、やはり野生動物のそれだった。


「……嵐のような娘ね」


私は大きく息を吐き、乱れたドレスを整えた。

御者が恐る恐る声をかけてくる。


「あ、あの……お嬢様。出してよろしいでしょうか?」


「ええ、出して。今度は本当に全力でね。二度と追いつかれないように」


「ぎょ、御意!」


馬車が再び動き出す。

遠ざかるリリィ様の背中を見送りながら、私はふと冷静に考えた。

あんなのが次期王妃候補?

この国の未来は大丈夫なのだろうか。

……いや、知ったことではない。

国が傾こうが王家が没落しようが、私と私の資産さえ無事ならそれでいいのだ。


「さて、邪魔が入ったけれど……」


私は気を取り直して、アークライト公爵邸への帰路を急がせた。

実家に帰れば、次は「お父様」との交渉が待っている。

我が父、アークライト公爵は、典型的な「貴族のメンツ」を重んじる男だ。

婚約破棄された娘をどう扱うか。

「恥さらし」と罵倒するか、「政略の駒」として再利用しようとするか。

どちらに転んでもいいように、私はすでに3パターンの反論を用意していた。

だが、屋敷の門をくぐった私を待っていたのは、そのどれでもない、予想外の反応だった。


***


「おかえり、ロゼリア。……よくやった!」


屋敷の広間に足を踏み入れるなり、父である公爵が大声で笑いながら私を出迎えたのだ。

手にはワイングラスを持っている。

すでに祝杯をあげているようだった。


「……お父様?」


「いやあ、素晴らしい! ジュリアン殿下との婚約破棄、成立したそうだな! しかも、あちらの有責で!」


「はあ、まあ……」


情報が早い。

私が到着するより先に、使いの者が知らせたのだろうか。

それにしても、この喜びようはどういうことだ?


「これでやっと、あの無能な王子との縁が切れる! 我が家の資産が吸い取られるのを、指をくわえて見ているしかなかった日々とはおさらばだ!」


父は私の肩をバンバンと叩いた。

どうやら、父も父で、王子の浪費癖には頭を抱えていたらしい。

親子揃って「金のかかる男は嫌い」という一点で意見が一致していたとは。


「それに、見ろ。先ほど、王城から早馬でこんなものが届いたぞ」


父が一通の書状を私に差し出した。

封蝋には、王家の紋章ではなく、さらに複雑で威厳のある紋章が押されている。

これは……宰相の紋章?


「『アークライト公爵令嬢ロゼリア殿。貴殿の卓越した計算能力と交渉術を見込み、我が国務の補佐を依頼したい。報酬は弾む』……だとさ」


「……は?」


差出人の名前を見て、私は息を飲んだ。

『宰相 アーク・フォン・クロウリー』

若くして宰相の地位に上り詰め、その冷徹な仕事ぶりから「氷の宰相」「王国の演算機」と恐れられる男。

なぜ、彼が私を?


「報酬は弾む、と書いてあるぞロゼリア。どうする?」


父がニヤニヤしながら聞いてくる。

私の答えなど、決まっている。


「……具体的な金額の提示がないのが気になりますが、話くらいは聞いてあげてもよろしくてよ」


私は書状を指先で弾いた。

婚約破棄からわずか数時間。

私の新しい「商談」は、向こうから勝手にやってきたようだった。
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