え、いいんですか?婚約破棄、最高じゃないですか!

小梅りこ

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「……読めん。さっぱり読めん!」


王城の片隅にある、第二王子ジュリアンの執務室。

そこは現在、悲鳴と紙擦れの音だけが支配する地獄と化していた。

机の上に積み上げられているのは、隣国から届いた貿易に関する協定書の草案や、来月開催される建国記念パーティーの招待客リスト、そして予算申請書の山だ。


「なぜだ! 以前はこんな書類、勝手に処理されていただろう!? 小人が夜中にやってくれているとばかり思っていたのに!」


ジュリアン殿下は頭を抱えて叫んだ。

その叫びを聞きながら、傍に控えるセバスチャンが冷ややかな目で告げる。


「殿下。小人などおりません。それらは全て、以前はロゼリア様が内々に処理してくださっていたのです。『殿下が読むと頭が痛くなるでしょうから』と」


「なっ……! あいつ、そんなことまでしていたのか!?」


「はい。殿下が『この国の文字は難しすぎる』とご公務をサボってリリィ様とピクニックに行かれている間に、ロゼリア様が代筆し、調整し、根回しをしておられたのです」


「……」


ジュリアン殿下は呆然とした。

彼は今まで、自分が優秀な王子だと思っていた。

書類にサインをすれば国が回り、予算は湧いて出てくるものだと信じていた。

だが、ロゼリアという「自動処理装置」を失った今、彼はただの「無能なイケメン」に成り下がっていたのだ。


「……困る。非常に困るぞ」


殿下は脂汗を流した。

特に、手元にある一通の手紙。

隣国の「ガルド商会」からの親書だ。

『先日のフリーマーケットの噂を聞きました。王族自らが商売をなされるとは斬新ですね。ぜひ一度、商談を』という、皮肉とも取れる内容が記されている。

これをどう返信すればいいのか、皆目見当がつかない。


「……そうだ」


殿下はポンと手を打った。

その顔に、再びいつもの自信過剰な笑みが戻る。


「簡単なことじゃないか。ロゼリアを呼び戻せばいいんだ!」


「は?」


セバスチャンが耳を疑うような声を出した。


「あいつも意地を張っているだけなんだ。本当は僕の世話を焼きたくてウズウズしているはずだ。僕が『許してやるから戻ってこい』と言えば、泣いて喜ぶに決まっている!」


「殿下……それはあまりにも……」


「よし、行くぞセバスチャン! アークのところにいるんだったな? 迎えに行ってやる!」


止める間もなく、殿下は部屋を飛び出した。

セバスチャンは天を仰ぎ、「……胃薬、追加発注しておこう」と呟いて、よろよろとその後を追った。


***


一方その頃、宰相執務室。


「……ふんふん。なるほど」


私はアーク様の机の横に専用デスクを構え、快適に仕事をこなしていた。

リリィ様という「高速物流システム」のおかげで書類のやり取りはスムーズだし、アーク様との連携もバッチリだ。

何より、働いた分だけ成果報酬(おやつ代含む)が入るのが素晴らしい。


「ロゼリア。隣国からの輸入関税の計算、終わったか?」


「はい、終わっております。こちらのグラフをご覧ください。現状の税率だと密輸が増える傾向にあるので、逆に2%下げて正規ルートを優遇したほうが、トータルの税収は上がります」


「……完璧だ。君の頭の中には計算機でも埋め込まれているのか?」


「ええ、金貨で動く高性能なやつが」


私たちが軽口を叩き合いながら仕事を進めていると。


バーン!!


本日二度目となる、扉の破壊音が響いた。

デジャヴだ。

入ってきたのは、やはりあの男だった。


「ロゼリア! 迎えに来てやったぞ!」


ジュリアン殿下が、まるで白馬の王子様のようなポーズ(馬はいない)で立っていた。

私はペンを置くことなく、チラリと彼を見た。


「……何の御用でしょうか、殿下。現在は勤務時間中ですので、アポイントメントのない面会はお断りしております」


「水臭いことを言うな! 僕だぞ、ジュリアンだぞ! 君の愛する婚約者だった男だ!」


「『だった』、過去形ですね。重要なポイントです」


「細かいことは気にするな! 単刀直入に言おう。……ロゼリア、君を許してやる!」


殿下はビシッと私を指差した。


「……はい?」


「君が僕への未練タラタラなのはわかっている。アークのところで働いているのも、僕の気を引くためのパフォーマンスなんだろう? もう十分だ。その健気さに免じて、婚約破棄を撤回してやろうと言っているんだ!」


静寂。

部屋中の空気が凍りついた。

執務室の隅で書類整理をしていた部下たちが、全員「うわぁ……」という顔をしている。

アーク様など、持っていた羽根ペンをへし折っていた。


「……殿下。今、なんと?」


アーク様が低い声で唸る。


「聞こえなかったのか宰相。僕は寛大にも、ロゼリアと復縁してやると言ったんだ。さあロゼリア、感動して泣いてもいいんだぞ? そして今すぐあの溜まりに溜まった書類を片付けてくれ!」


後半が本音だ。

隠す気すらないらしい。


私は深くため息をつき、電卓を手に取った。

そして、ゆっくりと立ち上がり、殿下の前まで歩み寄る。


「……殿下。ご提案、ありがとうございます」


「うむ。素直でよろしい」


「つきましては、復縁にかかる『お見積もり』を算出させていただきました」


「は? みつもり?」


私は電卓を叩きながら、早口でまくし立てた。


「まず、一度破棄された婚約を修復するための『再契約手数料』。これはアークライト公爵家のメンツを回復させるための広告宣伝費も含みますので、金貨3000枚」


「さ、さんぜん!?」


「次に、殿下の補佐業務を行う『労働対価』。これまでは無償の愛(という名のボランティア)でやっておりましたが、今後はプロとして契約します。時給換算で金貨1枚。深夜・休日対応は5割増し。殿下の能力不足をカバーするための『教育指導料』は別途請求」


「じ、時給!?」


「さらに、『精神的苦痛への慰謝料(継続分)』。殿下とお話しすること自体が私の精神衛生上よろしくありませんので、1分につき銀貨10枚の迷惑料を加算させていただきます」


「僕と話すだけで金がかかるのか!?」


「当然です。時は金なり。……以上を合計しますと、復縁の初期費用は金貨5000枚。維持費として月額金貨500枚となります。お支払いは一括のみ。……いかがなさいますか?」


私はにっこりと微笑み、電卓の液晶画面(魔法表示)を殿下の顔面に突きつけた。


「ご、ごせん……」


殿下は目を白黒させている。

払えるわけがない。

今の彼には、昨日のフリーマーケットの借金すら残っているのだから。


「そ、そんな金、あるわけないだろう! 愛だろ、愛! 僕の隣にいられる名誉はプライスレスじゃないのか!?」


「名誉でパンは買えません。それに、殿下の隣にいることは名誉ではなく『汚点』ですので、むしろマイナス査定です」


「ぐふっ……!」


私がトドメの一撃を放つと、殿下は胸を押さえてよろめいた。

言葉のナイフが深々と刺さったようだ。


「わ、わかった……。もういい! 金、金、金! 貴様ごとき守銭奴女に、僕の妃が務まるものか! 後悔しても知らんぞ!」


殿下は涙目で捨て台詞を吐いた。

しかし、まだ帰ろうとしない。

未練がましく、机の上の書類を見ている。


「で、でも……あの隣国への手紙だけでも、なんとかならんか……? あれ、難しい言葉がいっぱいで……」


「1文字につき銅貨1枚で翻訳しますが?」


「くそぉぉぉーーっ!!」


殿下は絶叫しながら、廊下へと走り去っていった。

本日三度目の嵐の通過である。


「……やれやれ。懲りない男だ」


アーク様が折れたペンを捨て、新しいペンを取り出しながら呆れたように言った。


「だが、ロゼリア。少し言いすぎではないか? あれで本当に諦めればいいが、逆上して何をしてくるかわからんぞ」


「逆上するほどの知能があれば、最初からあんな提案はしませんわ。それに……」


私は自分のデスクに戻り、書類に向き直った。


「私にとって、今の職場環境は最高なのです。適度な難易度の仕事、明確な報酬体系、そして……」


私はチラリとアーク様を見た。


「話の通じる、優秀な上司。これらを手放してまで、あの不良債権(王子)を抱え込む理由がありません」


「……そうか」


アーク様は口元を緩めた。

その表情は、どこか満足げだ。


「ならば、良し。……だが、一つ訂正しておこう」


「訂正?」


「私は君を『部下』としてだけで囲っておくつもりはない、ということだ」


「……はい?」


アーク様が立ち上がり、私のデスクの前に立った。

そして、机の上にドンと手を置く。

書類の壁越しに、氷の瞳が熱っぽく私を見つめる。


「殿下が復縁を迫ってきたのは、ある意味で好機だ。……彼に二度と手出しをさせないための、防波堤が必要だろう?」


「防波堤、ですか。物理的な壁なら、リリィ様を配置すれば済みますが」


「そうではない。社会的な壁だ」


アーク様は真剣な眼差しで言った。


「ロゼリア。私と『契約』を結ばないか?」


「契約……? 労働契約ならすでに……」


「違う。……『婚約』だ」


「!!」


私が計算の手を止めた。

婚約。

アーク様と?


「もちろん、ビジネスライクな関係だ。君は王子の干渉を避けるための『盾』を得る。私は、君という優秀な補佐官を公的に側に置くための『権利』を得る。……互いに利益のある話だと思わないか?」


アーク様は試すように、あるいは誘惑するように、唇の端を吊り上げた。


「期間は、君が望むまで。報酬は、宰相夫人の権限使い放題。……どうだ? 悪い話ではないはずだ」


私は瞬時に脳内で計算を始めた。

宰相の婚約者という立場。

メリット:王子の干渉排除、社交界での地位向上、国家予算へのアクセス権限拡大。

デメリット:アーク様のファン(いるのか?)からの嫉妬、宰相夫人の義務(面倒な茶会など)。


(……計算結果。利益率、測定不能なほど『プラス』)


感情的な動揺を必死に抑え込み、私はあくまで冷静を装って答えた。


「……ふむ。条件としては悪くありませんね。ただし、詳細な契約書を作成してからの合意とさせていただきます。慰謝料が発生する場合の条項もしっかり入れさせていただきますので」


「ああ、望むところだ。世界一厳密で、世界一利益の出る婚約にしよう」


アーク様が私の手を取り、その甲に口づけを落とした。

形式的な、契約の封印としてのキス。

けれど、その唇の熱さは、私の冷静な計算回路を少しだけショートさせるのに十分だった。


「……契約成立、です」


私が少し赤くなりながら告げると、アーク様は満足そうに笑った。


こうして、私は「元悪役令嬢」から「氷の宰相の契約婚約者」へとジョブチェンジを果たした。

しかし、この契約が単なるビジネスで終わらないことを、この時の私はまだ(頑なに)認めようとしていなかった。

そして、その直後。

「お姉様ー! 大変ですー!」

リリィ様が血相を変えて飛び込んできたことで、私たちの甘い(?)契約ムードは一瞬で吹き飛ぶこととなる。
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