え、いいんですか?婚約破棄、最高じゃないですか!

小梅りこ

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「……ロゼリア」


ワルツの旋律に合わせて、アーク様が私の耳元で囁いた。

その声は甘く、低く、普段の「宰相モード」とは少し違う周波数を帯びている。


「君は、誰よりも美しい。……このまま、どこかへ攫ってしまいたいくらいだ」


会場の照明が落ち、スポットライトが私たちを照らす中での、極上の口説き文句。

普通のご令嬢なら、ここで頬を染めて「アーク様……♡」と身を預ける場面だろう。

しかし、私の脳内CPUは、その言葉を瞬時にビジネス用語へと翻訳した。


(『攫ってしまいたい』……つまり、業務の拘束時間を延長したいということか? あるいは、公務以外のプライベートな場所への出張要請?)


私はステップを踏みながら、冷静に問い返した。


「……アーク様。それは『拉致監禁』の示唆でしょうか? それとも『長期出張』の打診でしょうか?」


「……は?」


「もし前者なら犯罪ですのでお断りします。後者なら、出張手当と宿泊費(五つ星ホテル限定)の支給が条件となりますが」


「…………」


アーク様がカクンと足をもつれさせそうになった。

私の腰を支える手に、一瞬だけ力がこもる。


「……ロゼリア。君は本当に、ムードという概念を母親の胎内に忘れてきたのか?」


「いいえ。ムードは『雰囲気』という非実体的な資産価値のことですよね? 現在のこの空間の演出効果として、十分に機能していると評価していますが」


「違う、そうじゃない。……はぁ」


アーク様は深い溜息をついた。

しかし、その口元はどこか楽しげに歪んでいる。


「まあいい。その情緒のなさこそが、君の最大の魅力だ(金がかからなくていいという意味で)」


「褒め言葉として受領しておきます」


曲が終わり、私たちは優雅にお辞儀をした。

パチパチパチ……!

会場から割れんばかりの拍手が巻き起こる。

「素晴らしい!」「なんてお似合いなんだ!」という称賛の声。

その陰で、「目が笑ってない……」「絶対に関わりたくないカップルNo.1だ……」という本音も聞こえるが、それは無視する。


「さて、ダンスという儀式は終了しました。次は『社交』という名の情報収集と人脈形成の時間ですね」


私は扇子を開き、戦闘モードに移行した。

これからが本番だ。

この会場には、国の主要な貴族や富豪たちが集まっている。

彼らの資産状況、弱み、そして新たなビジネスの種を探る絶好の狩り場なのだ。


「行くぞ、アーク様。獲物は逃がしませんわよ」


「……君のその、狩人のような目はやめろ。貴婦人らしく微笑んでいろ」


私たちは腕を組み、貴族たちの輪の中へと進んでいった。


「おやおや、宰相閣下! そしてロゼリア嬢! 婚約おめでとうございます!」


最初に声をかけてきたのは、恰幅のいい豚……失礼、財務大臣のバロン伯爵だった。

彼は全身に宝石を散りばめ、脂ぎった顔で笑っている。


「いやあ、驚きましたぞ。まさかあのアーク閣下が身を固めるとは! これはお祝いを弾まねばなりませんな!」


「ありがとうございます、バロン閣下」


私はにっこりと微笑み、彼の指輪をチラリと見た。


(……ルビーの指輪。推定価格金貨300枚。先月の財務報告では『予算不足で公共事業を縮小する』と言っていたのに、随分と羽振りがよろしいこと)


私の目が怪しく光ったのに気づいたのか、アーク様がすかさず口を挟む。


「バロン卿。お祝いの言葉、感謝する。……ところで、先日提出された『橋梁補修工事』の見積もりだが、資材費が相場の3倍になっていたな? あれは『お祝い』を含んでの価格設定かね?」


「ひっ……!?」


バロン伯爵の笑顔が引きつる。


「い、いえ! まさか! あれは昨今の物価高騰の影響で……!」


「そうですか? 私の計算では、貴方が懇意にしている商社を通したマージンが上乗せされているように見えましたが」


私が電卓を取り出すふりをすると、伯爵は「き、急用を思い出した!」と言って逃げ去った。


「……1匹目、撃破」


「逃げ足の速い豚だ。後で監査に入ろう」


私たちは次々と貴族たちに挨拶をして回った。

「ごきげんよう」と挨拶するたびに、相手は私の視線に怯え、アーク様の威圧感に縮み上がり、そして自ら弱みを吐露して去っていく。

まさに無双状態だ。

これほど効率的な社交はかつてなかった。


そんな中、会場の片隅で異様な光景が繰り広げられていた。


「あむあむ……んぐんぐ……! このローストビーフ、飲み物みたいですぅ!」


ビュッフェコーナーの主と化した、リリィ様である。

彼女の周りには、すでに空になった皿がタワーのように積み上げられていた。

周囲の貴族たちが「あの小柄な体のどこにそんな量が……」「底なしか……?」と遠巻きに恐怖している。


「……平和ね」


「あの食欲だけは計算外だな。……経費が心配だ」


アーク様が頭を抱えた、その時だった。


「おや? これはこれは……噂通りの美貌と才知をお持ちのカップルとお見受けします」


ねっとりとした、胡散臭い声が背後からかかった。

振り返ると、そこには一人の男が立っていた。

紫色の派手なスーツに、口ひげを蓄えた細身の男。

その目は笑っているが、奥底には計算高い光――私と同類の匂い――が宿っている。


「……どちら様で?」


アーク様が警戒心を露わにして問う。

男は恭しく帽子を取り、深々とお辞儀をした。


「お初にお目にかかります。私、隣国ガルド帝国の『ガルド商会』代表、ベネディクト・ガルドと申します」


ガルド商会。

その名を聞いて、私の眉がピクリと動いた。

あのジュリアン殿下に手紙を送りつけ、フリーマーケット騒動のきっかけを作った(かもしれない)商会だ。

そして、闇ルートで怪しげなマジックアイテムや薬を流通させているという黒い噂も聞く。


「以後、お見知り置きを。……本日は、お二人に『極上のビジネス』をご提案したく、参上いたしました」


ベネディクトは名刺を差し出した。

それはただの紙ではない。

金箔が練り込まれた、無駄に高級な名刺だ。


「ビジネス、ですか」


私は名刺を受け取り、値踏みするように彼を見た。


「我が国の宰相と公爵令嬢に、一介の商人が直接取引を持ちかけるとは。……よほどの自信がおありのようですね」


「ええ、もちろん。私が扱うのは『夢』と『未来』ですので」


彼はニヤリと笑い、懐から小瓶を取り出した。

中には、ピンク色の怪しげな液体が入っている。


「これこそが我が社の新製品。『惚れ薬・ラブポーション・デラックス』でございます」


「……は?」


「これを一滴たらせば、どんな相手もイチコロ。冷え切った夫婦仲も、片思いのあの人も、意のままに操れる魔法の薬。……いかがです? お二人のような『政略的な』関係には、特に需要があるのでは?」


ベネディクトは、私たちの関係が「契約」であることを見透かしたように、挑発的な視線を送ってきた。


(……なるほど。この男、私たちが『仮面カップル』であると踏んで、揺さぶりをかけに来たわけか)


私はアーク様と顔を見合わせた。

アーク様もまた、冷ややかな笑みを浮かべている。


「……ふむ。興味深い提案だ」


アーク様が言った。


「だが、残念ながら我々には不要だ」


「おや? なぜです? 愛のない結婚生活は寂しいものでしょう?」


「愛がない、などと誰が言った?」


アーク様は私の肩を抱き寄せ、ベネディクトを見下ろした。


「私は彼女の『計算高さ』を愛しているし、彼女は私の『財力と権力』を愛している。これ以上ないほど強固な絆で結ばれているのだ。……不純物が入り込む隙間などない」


「……その通りですわ」


私はベネディクトの目の前で、彼が出した小瓶を指先で弾いた。


「それに、その液体の成分。……主成分はアルコールと砂糖水、それに微量の興奮剤『マタタビエキス』ですね? 人間には効果が薄いですが、猫ならイチコロかもしれません」


「なっ……!?」


ベネディクトの顔から余裕が消えた。


「なぜ……成分分析もせずに……!」


「色と粘度、そして微かな匂いでわかります。原価は瓶代込みで銅貨10枚。それを金貨で売ろうなどと、随分と暴利を貪るおつもりね」


私は扇子で口元を隠し、冷たく笑った。


「ガルド商会。……噂は聞いておりましたが、商品の質は三流のようですわね」


「くっ……! この小娘が……!」


ベネディクトの表情が歪む。

どうやら図星だったらしい。

彼は名刺をひったくるように回収し、踵を返した。


「……覚えておきなさい。私のビジネスを邪魔する者は、タダでは済ませませんよ。……特に、その『国宝』の件なども含めてね」


捨て台詞を残し、彼は人混みの中へと消えていった。


「国宝……?」


アーク様が眉をひそめる。

「……あいつ、あの『蒼竜の壺』の件を知っているのか?」


「おそらく。あの骨董屋『黒猫堂』と繋がっていたのでしょう。……厄介な相手に目をつけられましたね」


私は溜息をついたが、心の中では少しワクワクしていた。

強欲な悪徳商人。

叩き潰しがいのある敵だ。

彼からどれだけの慰謝料と賠償金を毟り取れるか、今から楽しみで仕方がない。


「アーク様。新しい『害虫駆除』の仕事が発生しそうです。追加料金をいただけますか?」


「……やれやれ。君はどこまでも貪欲だな」


アーク様は苦笑しつつ、私の手を取った。


「いいだろう。その代わり……今夜は最後まで私に付き合ってもらうぞ、私の頼れるフィアンセ」


「……残業代、弾んでくださいね?」


私たちは再び手を取り合い、夜会の喧騒の中へと戻っていった。

新たな敵の出現。

そして、深まる(?)二人の絆。

私たちの波乱に満ちた婚約生活は、まだ始まったばかりだった。
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