え、いいんですか?婚約破棄、最高じゃないですか!

小梅りこ

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「……アーク様。この国の通貨レート、変動が激しすぎませんか?」


国境を越え、隣国ガルド帝国へと向かう豪華絢爛な王室専用馬車の中。

私は窓の外に広がる異国の景色には目もくれず、手元の羊皮紙(為替チャート)を睨みつけていた。

新婚旅行。

それは、愛し合う二人が甘い時間を過ごすための旅……というのが世間の常識らしい。

だが、私にとってこの旅行は、未知の市場を開拓するための「大規模視察(経費計上済み)」に他ならなかった。


「……ロゼリア。頼むから、今だけは仕事道具を置いてくれないか?」


向かいの席で、アーク様が深い溜息をついた。

彼は白シャツのボタンを少し開け、リラックスした格好をしている。

窓から差し込む日差しが、彼の整った顔立ちを照らし、絵画のように美しい。

……悔しいけれど、私の夫は無駄に顔が良い。


「置いておりますわ。……ほら、電卓はカバンの中です。今は暗算で処理しています」


「そういう問題ではない。……見てみろ、あれが『翡翠の湖』だ。美しいだろう?」


アーク様が窓の外を指差す。

エメラルドグリーンに輝く湖面。

湖畔には色とりどりの花が咲き乱れている。


「……ふむ。あの湖の色、独特の鉱物成分が溶け出していますね。水質調査を行えば、レアメタルが採掘できる可能性があります。採掘権の相場は……」


「……もういい。君に情緒を求めた私が愚かだった」


アーク様は諦めたように苦笑し、隣の席に移動してきた。

そして、私の肩に頭を乗せる。


「……少し眠い。昨夜、君が『荷造りリストの最終チェック』に付き合わせたせいで寝不足だ」


「あら、完璧な備えこそがリスクを最小化するのです。おかげで忘れ物はありませんわ」


「……そうだといいが」


アーク様は目を閉じ、私の体温を感じるように身を預けてきた。

甘い雰囲気。

馬車の揺れが心地よいリズムを刻む。

……まあ、移動中くらいは、少し休んでもいいかもしれない。

私は計算の手を止め、アーク様の髪をそっと撫でた。


その時だった。


ガタゴト……ガタンッ!


馬車の後部、荷物を積んでいるトランクスペースから、大きな物音がした。


「……ん?」


アーク様が目を開ける。


「今、荷物の方から音がしなかったか?」


「気のせいでしょう。路面の石を跳ねたのでは?」


ガサゴソ……ボコッ!!


いいえ、気のせいではなかった。

トランクと客室を仕切る扉が、内側から蹴破られたのだ。


「ぷはぁっ! く、苦しかったぁ~!」


大量の荷物に紛れて飛び出してきたのは、見慣れたピンク色の頭だった。

頭に私の予備のドレスを被り、口には非常食のドライフルーツを咥えている。


「……リリィ様?」


「……また君か」


私とアーク様は同時に声を上げた。

リリィ・フォン・ハンス(結婚して姓が変わった)。

パン屋の女将におさまったはずの元ヒロインが、なぜここに。


「えへへ、来ちゃいました!」


リリィ様はドレスを脱ぎ捨て、ニカッと笑った。


「な、なぜここに……? ハンス君はどうしたのだ?」


「ハンス君は『俺も行きたいけど、酵母の世話があるから……』って泣いてました! だから私だけ、お姉様の荷物に紛れ込んで……」


「密航ですね」


私は冷静に指摘した。


「ハンス君が泣いていたのは、貴女がいなくなる寂しさではなく、貴女という『試食係兼破壊神』を野放しにする不安からでしょう」


「えー? 違いますよぉ! 私、新婚旅行って聞いて、『ハネムーン』=『ハチミツがいっぱいある月』だと思って!」


「……誤解です。甘いのは雰囲気だけで、ハチミツの供給量は通常と変わりません」


「ガーン! 嘘だぁ!」


リリィ様が膝をつく。

食い意地だけで国境を越えるとは、相変わらずの行動力だ。


「……はぁ。どうするロゼリア。引き返すか?」


アーク様が頭を抱える。


「いいえ。国境は越えてしまいました。今から戻れば、スケジュールの遅延損害が発生します」


私は瞬時に計算した。

リリィ様を連れて行くコストと、彼女の破壊力(護衛能力)を天秤にかける。


「……連れて行きましょう。ガルド帝国は治安が悪いと聞きます。彼女がいれば、用心棒代わりになりますわ」


「用心棒というか、最終兵器だがな……」


こうして、私たちの甘い(はずの)新婚旅行は、またしても騒がしい三人旅へと変貌を遂げた。


***


数時間後。

馬車はガルド帝国の帝都『黄金の都』へと到着した。

その名の通り、街並みは金ピカだった。

建物の屋根は金色に塗られ、噴水からは金粉入りの水が吹き出し、歩く人々も派手な服を着飾っている。


「……趣味が悪いですね」


私が第一声で切り捨てると、アーク様も同意した。


「成金趣味だな。……だが見ろ、あの路地裏を」


アーク様の視線の先。

大通りの裏側には、ボロボロの服を着た子供たちが物乞いをしている姿が見えた。

極端な貧富の差。

表面だけを取り繕った、歪な繁栄。


「……典型的な『破綻寸前の経済』ですね」


私の目が鋭くなる。

この国、見かけ倒しだ。

国家予算の使い方が間違っている。

これは……コンサルティングのしがいがありそうだ。


「おいしそーなお店がいっぱいです!」


リリィ様だけが、屋台の匂いに釣られて窓にへばりついている。


私たちは予約していた最高級ホテル『ロイヤル・ガルド』に到着した。

エントランスにはレッドカーペットが敷かれ、ホテルマンたちが恭しく出迎える。


「ようこそお越しくださいました、アーク宰相閣下、ロゼリア様。……お待ちしておりました」


支配人が深々と頭を下げる。

しかし、その目は笑っていなかった。

どこか、探るような、怯えるような色がある。


(……何かあるわね)


私の直感が告げている。

単なるVIP客への対応ではない。


「お部屋はこちらのスイートになります。……あ、そちらのお連れ様は?」


支配人がリリィ様(パンくずまみれ)を見てギョッとする。


「私の『ペット』です。追加料金はお支払いしますので、同じ部屋にエキストラベッドを」


「ペ、ペット……? は、はい、かしこまりました」


案内された部屋は、無駄に広かった。

天井にはシャンデリア、床には虎の毛皮(偽物)、そしてベッドは天蓋付きのキングサイズ。


「……落ち着かない部屋だな」


アーク様が上着を脱ぎ、ソファに投げ出す。


「さて、夕食まで少し時間がある。……ロゼリア、街へ出るか? それとも……」


彼が意味深に私を見た。

新婚旅行らしい時間を過ごそうという誘いだ。

しかし。


コンコンコン。


無粋なノックが、その空気を断ち切った。


「……誰だ」


アーク様が不機嫌そうに扉を開ける。

そこに立っていたのは、金色の甲冑(ジュリアン殿下のより高そう)を着た、近衛騎士団長らしき男だった。


「失礼する。……ガルド帝国皇帝、カイザル・フォン・ガルド陛下よりの勅命である」


「皇帝陛下?」


「いかにも。アーク・フォン・クロウリー宰相、およびロゼリア夫人に、直ちに謁見の間へ参内するようにとのことだ」


「到着早々、呼び出しか。……何の用だ?」


アーク様が警戒する。

騎士団長は、ニヤリと笑みを浮かべて告げた。


「陛下は、貴殿らに興味をお持ちだ。特に……あの悪徳商人ベネディクトを破産させ、資産を巻き上げた『強欲の魔女』ロゼリア殿に」


「……魔女?」


私の眉がピクリと動いた。

悪役令嬢、守銭奴、までは許容範囲だが、魔女呼ばわりは心外だ。


「陛下は仰せだ。『その商才を余のために使え。さもなくば……帰国は許さん』とな」


「……脅迫ですか」


私はアーク様の後ろから顔を出した。


「他国の要人に対して、随分と礼を欠いたご挨拶ですこと」


「フン、我が国では皇帝陛下の言葉こそが法だ。……さあ、来るのか、来ないのか?」


騎士団長が腰の剣をガチャリと鳴らす。

アーク様の目がスッと細まる。

一触即発の空気。

しかし、私はアーク様の腕を押さえた。


「……行きましょう、アーク様」


「ロゼリア?」


「面白そうですわ。皇帝陛下がどんな方か、拝見させていただきましょう。……それに」


私はニヤリと笑った。


「『帰国は許さん』ということは、滞在費を全額国庫負担にしてくださるということでしょう? 長期滞在のチャンスです」


「……君は、皇帝相手でもブレないな」


アーク様はため息をつき、剣を収めた。


「わかった。案内しろ。……ただし、妻に指一本でも触れたら、この国を氷漬けにするぞ」


「……こ、心得ておこう」


騎士団長が少しだけ顔を引きつらせた。


「あ、私も行きますー! 皇帝様のご飯、食べてみたいです!」


リリィ様が元気よく手を挙げる。

こうして私たちは、荷物を置く暇もなく、ガルド帝国の王宮へと連行されることになった。

待ち受けているのは、金ピカの玉座に座る若き皇帝。

そして、彼から持ちかけられるのは、ジュリアン殿下の騒動など可愛く見えるほどの、「国家規模」の無理難題だった。


『余の国を買わないか?』


皇帝の第一声が、まさかの「国売り」提案だとは、さすがの私も計算外だったのである。
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