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「……おい、誰か説明しろ! なぜ、隣国からの親書がゴミ箱に捨てられているんだ!」
王都、王宮の執務室。
ヴィンセント王子の絶叫が、埃の舞う部屋に虚しく響いた。
かつては常に磨き上げられ、花の香りが漂っていたこの部屋も、今や書類の雪崩が起き、どこからか異臭さえ漂い始めている。
「……申し訳ございません、殿下。ナターシャ様が不在となってから、書類の『重要度仕分け』を行う者がおらず、新人の事務官が『文字が多いから』という理由で破棄してしまったようです」
「文字が多いからだと!? ふざけるな! それは我が国の関税に関する最重要項目だぞ!」
ヴィンセントは頭を抱え、自身の豪華な椅子に沈み込んだ。
いや、その椅子すら、最近はバネがへたって座り心地が悪い。
以前はナターシャが「私が座る時に不快だから」という名目で、三ヶ月に一度、職人を呼んで完璧にメンテナンスさせていたのだ。
「殿下、さらに問題が。王宮の予算管理が完全にパンクしております」
「予算? それは財務官の仕事だろう」
「それが……財務官が算出する予算案は、以前はすべてナターシャ様が裏で『計算がまどろっこしい』と、独自の数式で半分以下の時間に圧縮していたのです。今は従来のやり方に戻した結果、計算が終わる前に次の月が来てしまい……」
「……あいつ、そんなことまでやっていたのか?」
ヴィンセントの背筋に、冷たい汗が流れた。
彼にとって、ナターシャは「いつも不機嫌そうに書類を眺めている、可愛げのない女」でしかなかった。
しかし、その不機嫌の理由は「仕事が遅い周囲への苛立ち」であり、彼女が書類を眺めていたのは「一秒でも早く終わらせて寝るため」の超高速処理だったのだ。
「殿下ぁ、お仕事なんて後回しにして、一緒に踊りませんかぁ?」
そこへ、ふわふわとしたピンクのドレスを着たクロエが、軽やかなステップで入ってきた。
以前なら「可愛いな」と思えたその姿が、今のヴィンセントには「ノイズ」にしか感じられない。
「……クロエ。今は見ての通り、国が沈没しかけているんだ。踊っている暇はない」
「えぇー、そんなのナターシャ様みたいに、適当に判子だけ押せばいいじゃないですかぁ。あんな性格の悪い女にできたことが、殿下にできないはずありませんわ!」
「……適当に、だと?」
ヴィンセントは、目の前の「適当に判子が押された」結果、大赤字を出している貿易許可証を叩きつけた。
「彼女が押していたのは『適当な判子』ではない! すべてを精査し、無駄を削ぎ落とし、最短ルートで利益が出るように調整された『魔法の判子』だったんだ! ……クロエ、君はナターシャがいないこの一ヶ月で、一度でも帳簿を付けたか?」
「わ、私にそんな難しいことさせないでください! 私は殿下の心を癒やすのがお仕事なんですもの!」
「……癒やし? 今の私に必要なのは癒やしではない、事務処理能力だ!」
ヴィンセントの怒声に、クロエが「ぴえん」と泣き真似を始める。
しかし、周囲の側近たちの視線は冷ややかだった。
彼らもまた、ナターシャがいなくなったことで増えた残業に、殺意を抱き始めていたからだ。
「……閣下、報告は以上ではありません。王都の貴族たちの間で、奇妙な噂が流れております」
「噂? ナターシャの悪評か?」
「いえ……逆です。『ナターシャ様がいなくなってから、王宮の対応が遅すぎる』『実は彼女こそが王国の頭脳だったのではないか』と。さらに、辺境から届く例のプリンの影響で、彼女を『聖女』と崇める動きまで……」
「聖女!? あの毒婦がか!?」
「はい。国民は皆、彼女の『怠惰』を『無用な争いを避ける平和主義』だと解釈し始めています。……殿下、このままでは王室の威信が失墜いたします」
ヴィンセントは、窓の外を見た。
王都の街並みは変わらないが、空気はどこか沈んでいる。
人々は、もはや王子の色恋沙汰など興味がない。
それよりも、滞っている行政サービスと、美味しいプリンの供給元の安否を心配しているのだ。
「……分かった。認めよう。私は……大きな間違いを犯したのかもしれん」
「殿下!?」
クロエが驚愕の声を上げるが、ヴィンセントはそれを無視した。
「ナターシャ・フォン・グラム。彼女は毒婦などではなかった。この国という巨大な機械を、一歩も動かずに、指先一つで回していた……最強の歯車だったんだ」
「……では、連れ戻されますか?」
「ああ。だが、ただの命令では彼女は戻るまい。彼女は今、辺境で誰にも邪魔されない『快適』を手に入れている。それを捨てさせるほどの、圧倒的な条件を提示しなければ……」
ヴィンセントの目は、かつてないほど真剣だった。
しかし、彼はまだ知らない。
ナターシャが今、辺境で毛布に包まれながら「王都なんて爆発すればいいのに」と、心底幸せそうに寝言を言っていることを。
そして、彼女の隣には、王子の軍勢さえも一蹴する準備を整えた「勘違いの騎士」ミハイルが控えていることを。
「ナターシャ……待っていろ。今度こそ、君の本当の価値を私が……」
ヴィンセントの決意は、もはや手遅れに近い。
王宮の機能停止は、彼が思っている以上に、ナターシャにとって「どうでもいいこと」だったのだから。
王都、王宮の執務室。
ヴィンセント王子の絶叫が、埃の舞う部屋に虚しく響いた。
かつては常に磨き上げられ、花の香りが漂っていたこの部屋も、今や書類の雪崩が起き、どこからか異臭さえ漂い始めている。
「……申し訳ございません、殿下。ナターシャ様が不在となってから、書類の『重要度仕分け』を行う者がおらず、新人の事務官が『文字が多いから』という理由で破棄してしまったようです」
「文字が多いからだと!? ふざけるな! それは我が国の関税に関する最重要項目だぞ!」
ヴィンセントは頭を抱え、自身の豪華な椅子に沈み込んだ。
いや、その椅子すら、最近はバネがへたって座り心地が悪い。
以前はナターシャが「私が座る時に不快だから」という名目で、三ヶ月に一度、職人を呼んで完璧にメンテナンスさせていたのだ。
「殿下、さらに問題が。王宮の予算管理が完全にパンクしております」
「予算? それは財務官の仕事だろう」
「それが……財務官が算出する予算案は、以前はすべてナターシャ様が裏で『計算がまどろっこしい』と、独自の数式で半分以下の時間に圧縮していたのです。今は従来のやり方に戻した結果、計算が終わる前に次の月が来てしまい……」
「……あいつ、そんなことまでやっていたのか?」
ヴィンセントの背筋に、冷たい汗が流れた。
彼にとって、ナターシャは「いつも不機嫌そうに書類を眺めている、可愛げのない女」でしかなかった。
しかし、その不機嫌の理由は「仕事が遅い周囲への苛立ち」であり、彼女が書類を眺めていたのは「一秒でも早く終わらせて寝るため」の超高速処理だったのだ。
「殿下ぁ、お仕事なんて後回しにして、一緒に踊りませんかぁ?」
そこへ、ふわふわとしたピンクのドレスを着たクロエが、軽やかなステップで入ってきた。
以前なら「可愛いな」と思えたその姿が、今のヴィンセントには「ノイズ」にしか感じられない。
「……クロエ。今は見ての通り、国が沈没しかけているんだ。踊っている暇はない」
「えぇー、そんなのナターシャ様みたいに、適当に判子だけ押せばいいじゃないですかぁ。あんな性格の悪い女にできたことが、殿下にできないはずありませんわ!」
「……適当に、だと?」
ヴィンセントは、目の前の「適当に判子が押された」結果、大赤字を出している貿易許可証を叩きつけた。
「彼女が押していたのは『適当な判子』ではない! すべてを精査し、無駄を削ぎ落とし、最短ルートで利益が出るように調整された『魔法の判子』だったんだ! ……クロエ、君はナターシャがいないこの一ヶ月で、一度でも帳簿を付けたか?」
「わ、私にそんな難しいことさせないでください! 私は殿下の心を癒やすのがお仕事なんですもの!」
「……癒やし? 今の私に必要なのは癒やしではない、事務処理能力だ!」
ヴィンセントの怒声に、クロエが「ぴえん」と泣き真似を始める。
しかし、周囲の側近たちの視線は冷ややかだった。
彼らもまた、ナターシャがいなくなったことで増えた残業に、殺意を抱き始めていたからだ。
「……閣下、報告は以上ではありません。王都の貴族たちの間で、奇妙な噂が流れております」
「噂? ナターシャの悪評か?」
「いえ……逆です。『ナターシャ様がいなくなってから、王宮の対応が遅すぎる』『実は彼女こそが王国の頭脳だったのではないか』と。さらに、辺境から届く例のプリンの影響で、彼女を『聖女』と崇める動きまで……」
「聖女!? あの毒婦がか!?」
「はい。国民は皆、彼女の『怠惰』を『無用な争いを避ける平和主義』だと解釈し始めています。……殿下、このままでは王室の威信が失墜いたします」
ヴィンセントは、窓の外を見た。
王都の街並みは変わらないが、空気はどこか沈んでいる。
人々は、もはや王子の色恋沙汰など興味がない。
それよりも、滞っている行政サービスと、美味しいプリンの供給元の安否を心配しているのだ。
「……分かった。認めよう。私は……大きな間違いを犯したのかもしれん」
「殿下!?」
クロエが驚愕の声を上げるが、ヴィンセントはそれを無視した。
「ナターシャ・フォン・グラム。彼女は毒婦などではなかった。この国という巨大な機械を、一歩も動かずに、指先一つで回していた……最強の歯車だったんだ」
「……では、連れ戻されますか?」
「ああ。だが、ただの命令では彼女は戻るまい。彼女は今、辺境で誰にも邪魔されない『快適』を手に入れている。それを捨てさせるほどの、圧倒的な条件を提示しなければ……」
ヴィンセントの目は、かつてないほど真剣だった。
しかし、彼はまだ知らない。
ナターシャが今、辺境で毛布に包まれながら「王都なんて爆発すればいいのに」と、心底幸せそうに寝言を言っていることを。
そして、彼女の隣には、王子の軍勢さえも一蹴する準備を整えた「勘違いの騎士」ミハイルが控えていることを。
「ナターシャ……待っていろ。今度こそ、君の本当の価値を私が……」
ヴィンセントの決意は、もはや手遅れに近い。
王宮の機能停止は、彼が思っている以上に、ナターシャにとって「どうでもいいこと」だったのだから。
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