邪魔する殿下との婚約破棄、喜んで承ります。

小梅りこ

文字の大きさ
27 / 28

27

しおりを挟む
「……セバス。最近、この領地の空気が以前よりもさらに『静か』になった気がするわ。私の耳が、ついに音という概念を拒絶し始めたのかしら」


数年後のヴォルゴ辺境伯邸。
ナターシャは、ミハイルが自領の魔導師たちに「一切の音を吸収する結界」を張らせた、最高機密の寝室で呟いた。


「お嬢様、いえ、奥様。それはお嬢様の聴覚のせいではございません。領民たちが、奥様の安眠を守るために、街全体の石畳を『消音ゴム』に貼り替え、犬の鳴き声すらもマナーモードにする訓練を積んだ成果でございます」


「消音ゴム……。素晴らしいわ。領民たちも、ようやく『静寂』こそが真の豊かさであることに気づいたのね」


ナターシャは、特注の「首の筋肉を一切使わずに読書ができる魔導鏡」越しに、窓の外を眺めた。
かつては荒廃していた辺境の地は、今や「安眠の聖地」として大陸中にその名を知らしめていた。


「奥様が『歩きたくない』と仰って設計した『自動移動歩道』が、今や領内の主要な物流インフラとなり、重い荷物を運ぶ必要がなくなったことで、領民の平均寿命が五歳も伸びたそうでございますよ」


「あら。私はただ、おやつを運ぶのが面倒だっただけなのに。……人間、楽をすれば長生きするのね」


そこへ、かつての「氷の処刑人」から、今や「世界一腰の低い愛妻家」へと進化したミハイルが、音を立てずにスライディングするように入室してきた。


「ナターシャ! 今日も君の寝顔は、この世の奇跡のように美しい! ……さて、本日の『動かない公務』の相談なのだが」


ミハイルは、ナターシャのベッドの横に置かれた「夫人専用・意見投函箱」を開いた。
中には、領民からの感謝の手紙と、少々の相談事が詰まっている。


「隣領の領主が、君の『究極の枕』の特許を分けてほしいと泣きついてきている。どうする? 断ってもいいが、彼らは代わりに『君が一生食べても尽きない最高級の干し肉』を献上すると言っているが」


「……干し肉。……いいわ。特許を差し上げなさい。ただし、干し肉は食べやすいように、最初から三ミリの厚さにスライスさせておくのが条件よ」


「承知した! さすがだナターシャ、君の交渉術は常に最小の言葉で最大の利益を生む! ……ああ、領民たちも喜ぶだろう。『夫人がまた一つ、我々に快適な睡眠(平和)を授けてくださった』と!」


ミハイルは、ナターシャの手を神聖な遺物のように拝むと、そのまま彼女の「フットウォーマー(人間版)」として足元に控えた。


「……ナターシャ。君がこの地に来てから、我が領は変わった。……かつては戦いと厳格さこそが正義だと思っていた私が、今では『いかに心地よくサボるか』を考えることが、領地の繁栄に直結すると知ったのだから」


「……ミハイル様。それは『サボる』ではなく『効率化』と呼びなさい。……無駄な努力を省くことで、本当に大切な『二度寝の時間』が生まれるのです。……わかりますか?」


「わかるとも! その一分一秒の二度寝のために、私は今日も、無駄な会議をすべて廃止してきた!」


ナターシャは、満足げに目を閉じた。
彼女が「楽をしたい」という私欲だけで作り上げた環境は、いつの間にか「持続可能な超効率社会」として完成されていた。


王都では、ヴィンセントが強制労働施設で「ナターシャ、君の書類整理術を教えてくれ……」と泣きながら岩を運んでいるという噂も届いていたが、ナターシャにとって、それはもう別世界の御伽話でしかなかった。


「……セバス。ミハイル様。私、もう次の眠りに入りますわ。……次回の『起きる予定』は、明日の十時……いえ、気が向いた時でいいわ」


「畏まりました、奥様。世界が、貴女の覚醒を静かにお待ちしております」


「おやすみ、ナターシャ! 君の夢の中に、私の居場所が少しでもありますように!」


ナターシャは、誰よりも深く、誰よりも優雅に、幸福の深淵へと沈んでいった。
彼女は今、自らの「怠惰」によって、一歩も動かずに世界を救い、そして最高の夫を飼い慣らすことに成功したのである。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

《完結》愛する人と結婚するだけが愛じゃない

ぜらちん黒糖
恋愛
オリビアはジェームズとこのまま結婚するだろうと思っていた。 ある日、可愛がっていた後輩のマリアから「先輩と別れて下さい」とオリビアは言われた。 ジェームズに確かめようと部屋に行くと、そこにはジェームズとマリアがベッドで抱き合っていた。 ショックのあまり部屋を飛び出したオリビアだったが、気がつくと走る馬車の前を歩いていた。

【完結】不貞された私を責めるこの国はおかしい

春風由実
恋愛
婚約者が不貞をしたあげく、婚約破棄だと言ってきた。 そんな私がどうして議会に呼び出され糾弾される側なのでしょうか? 婚約者が不貞をしたのは私のせいで、 婚約破棄を命じられたのも私のせいですって? うふふ。面白いことを仰いますわね。 ※最終話まで毎日一話更新予定です。→3/27完結しました。 ※カクヨムにも投稿しています。

〈完結〉八年間、音沙汰のなかった貴方はどちら様ですか?

詩海猫(8/29書籍発売)
恋愛
私の家は子爵家だった。 高位貴族ではなかったけれど、ちゃんと裕福な貴族としての暮らしは約束されていた。 泣き虫だった私に「リーアを守りたいんだ」と婚約してくれた侯爵家の彼は、私に黙って戦争に言ってしまい、いなくなった。 私も泣き虫の子爵令嬢をやめた。 八年後帰国した彼は、もういない私を探してるらしい。 *文字数的に「短編か?」という量になりましたが10万文字以下なので短編です。この後各自のアフターストーリーとか書けたら書きます。そしたら10万文字超えちゃうかもしれないけど短編です。こんなにかかると思わず、「転生王子〜」が大幅に滞ってしまいましたが、次はあちらに集中予定(あくまで予定)です、あちらもよろしくお願いします*

婚約破棄の代償

nanahi
恋愛
「あの子を放って置けないんだ。ごめん。婚約はなかったことにしてほしい」 ある日突然、侯爵令嬢エバンジェリンは婚約者アダムスに一方的に婚約破棄される。破局に追い込んだのは婚約者の幼馴染メアリという平民の儚げな娘だった。 エバンジェリンを差し置いてアダムスとメアリはひと時の幸せに酔うが、婚約破棄の代償は想像以上に大きかった。

「本当に僕の子供なのか検査して調べたい」子供と顔が似てないと責められ離婚と多額の慰謝料を請求された。

佐藤 美奈
恋愛
ソフィア伯爵令嬢は、公爵位を継いだ恋人で幼馴染のジャックと結婚して公爵夫人になった。何一つ不自由のない環境で誰もが羨むような生活をして、二人の子供に恵まれて幸福の絶頂期でもあった。 「長男は僕に似てるけど、次男の顔は全く似てないから病院で検査したい」 ある日、ジャックからそう言われてソフィアは、時間が止まったような気持ちで精神的な打撃を受けた。すぐに返す言葉が出てこなかった。この出来事がきっかけで仲睦まじい夫婦にひびが入り崩れ出していく。

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

家が没落した時私を見放した幼馴染が今更すり寄ってきた

今川幸乃
恋愛
名門貴族ターナー公爵家のベティには、アレクという幼馴染がいた。 二人は互いに「将来結婚したい」と言うほどの仲良しだったが、ある時ターナー家は陰謀により潰されてしまう。 ベティはアレクに助けを求めたが「罪人とは仲良く出来ない」とあしらわれてしまった。 その後大貴族スコット家の養女になったベティはようやく幸せな暮らしを手に入れた。 が、彼女の前に再びアレクが現れる。 どうやらアレクには困りごとがあるらしかったが…

挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました

結城芙由奈@コミカライズ3巻7/30発売
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】 今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。 「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」 そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。 そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。 けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。 その真意を知った時、私は―。 ※暫く鬱展開が続きます ※他サイトでも投稿中

処理中です...