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「……セバス。結婚式の打ち合わせが始まって三十分経つけれど、私の『忍耐の限界値』がレッドゾーンに突入したわ。どうして結婚式というのは、こうも『立っている時間』を強要するのかしら」
公爵邸から運び込まれた大量のドレス図案を前に、ナターシャは「もふもふポッド」の中で完全に液体化していた。
「お嬢様、通常の令嬢は半年かけて準備するものを、ミハイル様が『一日でも早く彼女を公的に守る立場になりたい』と仰って一ヶ月に短縮した結果、密度の濃い打ち合わせとなっております」
「一ヶ月!? 一ヶ月間も、毎日『色』だの『レース』だのという概念に脳を支配されるなんて、私の安眠に対する重大な人権侵害だわ。……セバス、ミハイル様を呼んできて。プランの大幅な『削除』を行うわよ」
扉の前で、ナターシャの起きた気配を察知してスタンバイしていたミハイルが、音もなく(最近彼は、ナターシャを驚かせないよう歩行術まで習得していた)入室した。
「ナターシャ、呼んだか! 式の演出についてか? 君が会場に入場する際、白馬が引く馬車を空中に浮かせる魔法具の手配は完了したぞ!」
「……却下です。馬車に乗るために揺られるのさえ嫌ですわ。……ミハイル様、私の要望はただ一つ。一歩も歩かず、一度も着替えず、最短時間で終わる『動かない結婚式』をプロデュースしなさい」
ミハイルは一瞬、思考を停止させた。
しかし、彼の脳内にある「ナターシャ・フィルター」が、即座にその言葉を神聖な哲学へと変換する。
「……『動かない結婚式』だと? そうか! 結婚とは人生の定住。ふらふらと落ち着きのない演出など、真実の愛の前では虚飾に過ぎないということか! 一歩も動かないことこそが、揺るぎない決意の表明……!」
「いえ、ただ単に、ヒールを履いてヴァージンロードを歩くのが苦行なだけですわ」
「素晴らしい! 君のその、足元(リアリティ)を見据えた合理性! ……分かった、ナターシャ。私が、君が指一本動かさずに『誓い』を完了できる、前代未聞の式典を設計しよう!」
数週間後。
ヴォルゴ領の中央広場には、領民数千人が詰めかけていた。
彼らが目にしたのは、教会の祭壇そのものが「特大の移動式ベッド」になっているという、異様な光景だった。
ナターシャは、純白のシルクで作られた、もはやドレスというより「最高級の寝具」に近い衣装を纏い、クッションの山に埋もれて横たわっていた。
「……セバス。このベール、重いわ。首の筋肉が悲鳴を上げているの」
「お嬢様、あと五分の辛抱です。ミハイル様が、今、猛烈な勢いで誓いの言葉を述べておられますから」
祭壇(ベッド)の横で、ミハイルは立ったまま、通常の三倍の速さで愛の誓いを絶叫していた。
「私は誓う! ナターシャの睡眠を、呼吸を、そして彼女の全細胞が欲する『怠惰』を、この命が果てるまで保障することを! 異議のある者は、我が剣をもって裁こう!」
「「「異議なし!」「聖女様、おめでとうございます!」」」
領民たちの歓声が響く。
普通なら、ここで新郎新婦が腕を組んで行進し、花吹雪を浴びるところだが。
「……ミハイル様、誓いは終わりましたわね? では、帰りますわよ」
ナターシャが指を鳴らすと、祭壇(ベッド)の下に仕込まれた魔導車輪が駆動を始めた。
ナターシャを乗せたまま、祭壇そのものが静かに回転し、そのまま教会の裏口から別荘へと直行する「自動退場システム」である。
「……ははは! 見ろ! 滞りなく、わずか十分で式が完了した! これぞ、ナターシャ・フォン・ヴォルゴの効率的婚礼!」
ミハイルは、遠ざかっていく「動くベッド」を追いかけながら、満足げに叫んだ。
別荘に戻ったナターシャは、ベールをセバスに投げ捨てさせると、そのまま本来の「眠りの姿勢」に戻った。
「……疲れたわ。結婚式なんて、人生で二度とやるものではないわね」
「お嬢様、公的にはこれでお二人は夫婦でございます。……さて、今夜は『初夜』という、これまた多忙な儀式が控えておりますが……」
ナターシャは、窓際で自分の「盾」として隙間風を防ぎ始めたミハイルを一瞥した。
「……ミハイル様。貴方は、そこにいて私の眠りを見守っていてくれればいいですわ。……あ、もし私が寝返りを打って布団からはみ出したら、音を立てずに、かつ優しく戻してくださいね。……それが、私への最高の愛の形ですわ」
「……ナターシャ!! なんて、なんて奥ゆかしい……! 君の眠りを守ることこそが、私の夫としての至福! 任せてくれ、一睡もせずに君の指先の冷えを確認し続けよう!」
「……あ、やっぱり、一睡もしないのは怖いわね。適当に寝てください。……おやすみなさい」
ナターシャは、ミハイルの重すぎる愛を適当に受け流しながら、深い眠りへと落ちていった。
それは、世界で一番「動かない」花嫁が勝ち取った、完璧な平穏の始まりであった。
公爵邸から運び込まれた大量のドレス図案を前に、ナターシャは「もふもふポッド」の中で完全に液体化していた。
「お嬢様、通常の令嬢は半年かけて準備するものを、ミハイル様が『一日でも早く彼女を公的に守る立場になりたい』と仰って一ヶ月に短縮した結果、密度の濃い打ち合わせとなっております」
「一ヶ月!? 一ヶ月間も、毎日『色』だの『レース』だのという概念に脳を支配されるなんて、私の安眠に対する重大な人権侵害だわ。……セバス、ミハイル様を呼んできて。プランの大幅な『削除』を行うわよ」
扉の前で、ナターシャの起きた気配を察知してスタンバイしていたミハイルが、音もなく(最近彼は、ナターシャを驚かせないよう歩行術まで習得していた)入室した。
「ナターシャ、呼んだか! 式の演出についてか? 君が会場に入場する際、白馬が引く馬車を空中に浮かせる魔法具の手配は完了したぞ!」
「……却下です。馬車に乗るために揺られるのさえ嫌ですわ。……ミハイル様、私の要望はただ一つ。一歩も歩かず、一度も着替えず、最短時間で終わる『動かない結婚式』をプロデュースしなさい」
ミハイルは一瞬、思考を停止させた。
しかし、彼の脳内にある「ナターシャ・フィルター」が、即座にその言葉を神聖な哲学へと変換する。
「……『動かない結婚式』だと? そうか! 結婚とは人生の定住。ふらふらと落ち着きのない演出など、真実の愛の前では虚飾に過ぎないということか! 一歩も動かないことこそが、揺るぎない決意の表明……!」
「いえ、ただ単に、ヒールを履いてヴァージンロードを歩くのが苦行なだけですわ」
「素晴らしい! 君のその、足元(リアリティ)を見据えた合理性! ……分かった、ナターシャ。私が、君が指一本動かさずに『誓い』を完了できる、前代未聞の式典を設計しよう!」
数週間後。
ヴォルゴ領の中央広場には、領民数千人が詰めかけていた。
彼らが目にしたのは、教会の祭壇そのものが「特大の移動式ベッド」になっているという、異様な光景だった。
ナターシャは、純白のシルクで作られた、もはやドレスというより「最高級の寝具」に近い衣装を纏い、クッションの山に埋もれて横たわっていた。
「……セバス。このベール、重いわ。首の筋肉が悲鳴を上げているの」
「お嬢様、あと五分の辛抱です。ミハイル様が、今、猛烈な勢いで誓いの言葉を述べておられますから」
祭壇(ベッド)の横で、ミハイルは立ったまま、通常の三倍の速さで愛の誓いを絶叫していた。
「私は誓う! ナターシャの睡眠を、呼吸を、そして彼女の全細胞が欲する『怠惰』を、この命が果てるまで保障することを! 異議のある者は、我が剣をもって裁こう!」
「「「異議なし!」「聖女様、おめでとうございます!」」」
領民たちの歓声が響く。
普通なら、ここで新郎新婦が腕を組んで行進し、花吹雪を浴びるところだが。
「……ミハイル様、誓いは終わりましたわね? では、帰りますわよ」
ナターシャが指を鳴らすと、祭壇(ベッド)の下に仕込まれた魔導車輪が駆動を始めた。
ナターシャを乗せたまま、祭壇そのものが静かに回転し、そのまま教会の裏口から別荘へと直行する「自動退場システム」である。
「……ははは! 見ろ! 滞りなく、わずか十分で式が完了した! これぞ、ナターシャ・フォン・ヴォルゴの効率的婚礼!」
ミハイルは、遠ざかっていく「動くベッド」を追いかけながら、満足げに叫んだ。
別荘に戻ったナターシャは、ベールをセバスに投げ捨てさせると、そのまま本来の「眠りの姿勢」に戻った。
「……疲れたわ。結婚式なんて、人生で二度とやるものではないわね」
「お嬢様、公的にはこれでお二人は夫婦でございます。……さて、今夜は『初夜』という、これまた多忙な儀式が控えておりますが……」
ナターシャは、窓際で自分の「盾」として隙間風を防ぎ始めたミハイルを一瞥した。
「……ミハイル様。貴方は、そこにいて私の眠りを見守っていてくれればいいですわ。……あ、もし私が寝返りを打って布団からはみ出したら、音を立てずに、かつ優しく戻してくださいね。……それが、私への最高の愛の形ですわ」
「……ナターシャ!! なんて、なんて奥ゆかしい……! 君の眠りを守ることこそが、私の夫としての至福! 任せてくれ、一睡もせずに君の指先の冷えを確認し続けよう!」
「……あ、やっぱり、一睡もしないのは怖いわね。適当に寝てください。……おやすみなさい」
ナターシャは、ミハイルの重すぎる愛を適当に受け流しながら、深い眠りへと落ちていった。
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