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「……セバス。ミハイル様が、さっきから玄関先で百回くらい深呼吸をしている音が聞こえるわ。私の別荘が、彼の肺活量で真空状態になってしまうのではないかしら」
別荘のリビング。ナターシャは、ミハイルが自領の総力を挙げて開発させた「重力を完全に分散する水床(ウォーターベッド)」に、半分ほど埋まりながら呟いた。
「お嬢様、真空にはなりませんが、ミハイル様の心拍数は先ほどから戦場における突撃直前の数値を超えております。……おそらく、今日がその『決戦の日』なのでしょう」
セバスが銀のトレイを置くのと同時に、扉が静かに……しかし、並々ならぬ決意を秘めた重みで開かれた。
現れたのは、磨き上げられた儀礼用の白銀の甲冑に身を包んだミハイルだった。
「……ナターシャ嬢。いや、ナターシャ。……静聴を願いたい」
ミハイルは、ナターシャのベッドの横に、鋼鉄の音が響くほど勢いよく跪いた。
その手には、王都の予算一年分に匹敵するような、巨大な魔石が埋め込まれた指輪が握られている。
「ヴィンセントの騒動は終わった。王都は浄化され、君の潔白は……いや、君の『聖性』は今や全土に知れ渡っている。……だが、私は不安なのだ」
「……何がですの、ミハイル様。私のプリンの在庫でも切れたのかしら?」
「違う! 君のような、これほどまでに有能で、慈悲深く、かつ圧倒的な合理性を持つ女性を、世界が放っておくはずがない! また別の愚か者が、君の静寂を奪いに来るかもしれない。……それが、私は耐えられないんだ!」
ミハイルは、ナターシャの(布団から出ている)手を、壊れ物を扱うように両手で包み込んだ。
「ナターシャ、私と結婚してくれ! このヴォルゴのすべてを君に捧げる! 私の地位も、名誉も、そしてこの命さえも、君が『一生、寝て暮らすため』の防壁にしたいんだ!」
ナターシャは、パチパチと瞬きをした。
プロポーズ。それは人生の重大事だ。
しかし、彼女の脳内で即座に行われた計算は、別の方向へと向かっていた。
「……ミハイル様。それはつまり、私が『領主夫人』という肩書きを得ることで、他の誰からも面倒な招待状が届かなくなり、公式行事はすべて貴方が代行してくださる……という理解でよろしいのかしら?」
「当然だ! 君は一歩も城から出る必要はない! むしろ、君が動くことはこの領の損失だ。君はただ、最奥の寝室で『平和の象徴』として微睡んでいてくれればいい!」
「……朝食の時間は? 私は十時より前に起こされると、その日の生産性がゼロ以下になりますわ」
「君のバイオリズムが最優先だ! 私が城中の時計を三時間遅らせてでも、君の十時を死守しよう!」
「……お風呂の温度は? 私は常に四十一・五度をキープしていないと、ふて寝する癖がありますの」
「魔導士を二十四時間配備して、零点一度の狂いもなく維持させよう! 湯船の中で寝落ちしても溺れないよう、私がずっと支えていてもいい!」
ミハイルの瞳には、一切の迷いがない。
彼は本気だ。本気で、ナターシャを「世界で最も快適なニート」にしようとしている。
「……いいわね。悪くない条件だわ。……セバス、今の内容をすべて盛り込んだ『婚姻契約書兼・絶対安眠保証書』を三通ほど作成して。ミハイル様、血判でいいですから押してくださる?」
「喜んで! 指の一本や二本、今すぐここで切り落としてでも!」
「いえ、そこまでされると血の匂いで私が寝られなくなりますので、インクで結構ですわ」
ナターシャは、ようやくベッドから上半身を(セバスの助けを借りて)起こした。
そして、ミハイルが差し出した巨大な指輪を、じっと見つめた。
「……ミハイル様。一つだけ、確認しておきたいことがありますわ」
「何だ! 領地を半分、君の名義にするか? それとも、王宮を買い取って君の寝室に改造するか?」
「……そんなことではありません。……貴方、本当に、私みたいな『何もしない女』が妻でいいのですか? 貴方はもっと、領地のために働き、貴方を支える献身的な女性を選ぶべきではなくて?」
ナターシャは、ほんの少しだけ、本気の問いを投げかけた。
彼女は自分の「怠惰」を誇っているが、それが世間一般の「愛」とは程遠いことも知っていた。
しかし、ミハイルは、まるで太陽のような眩しい笑顔で答えた。
「……ナターシャ。君は勘違いをしている。君が『何もしない』こと。それこそが、私にとって最大の献身なのだ」
「……はい?」
「君が幸せそうに寝ているだけで、この領の水は澄み、民は豊かになり、私は明日も戦えると勇気をもらえる。君の『安眠』は、この地の『平和』のバロメーターなのだ。君が起きている時間は、私にとって『何か問題が起きているのではないか』と不安になる時間でしかない!」
「……あの、ミハイル様。それはもう、愛を通り越して信仰ではありません?」
「ああ、信仰だ! 私は君という『怠惰の女神』の、最初で最後の信徒になることを誓ったのだからな!」
ミハイルは、ナターシャの手に誓いの接吻を落とした。
その熱い感触に、ナターシャは「ああ、これなら冬でも湯たんぽ代わりになりそうね」と、失礼極まりない感想を抱きながら、満足げに微笑んだ。
「……分かりました。ミハイル・ヴォルゴ。貴方を私の『一生ものの枕』として採用してあげますわ」
「……ナターシャ!! ありがとうございます!!」
ミハイルの咆哮が別荘を揺らした。
セバスは「これで、お嬢様の『だらだら人生』も、公的な保障を得ましたね」と、どこからか取り出したシャンパンの栓を抜いた。
ナターシャは、ミハイルに贈られた指輪の、あまりの重さに「……やっぱり、左手首が腱鞘炎になりそうだわ。ミハイル様、これ、ネックレスに作り直してくださる?」と、さっそく次の要求を始めた。
「もちろんだ! 軽くて頑丈な、最高級のオリハルコンで鎖を作らせよう!」
辺境の冷徹な領主が、一人の令嬢の「わがまま」を叶えるための「全自動・御用聞き」へと完全進化した瞬間であった。
ナターシャは、ミハイルの広い胸に(寄りかかるのが楽だという理由で)頭を預け、そのまま四度目の昼寝へと誘われていった。
彼女にとっての結婚とは、新しい家族を作ることではなく、自分を全肯定してくれる「最高の環境」を手に入れること。
その目的において、彼女は今、人生で最大の、そして最後の勝利を掴み取ったのである。
別荘のリビング。ナターシャは、ミハイルが自領の総力を挙げて開発させた「重力を完全に分散する水床(ウォーターベッド)」に、半分ほど埋まりながら呟いた。
「お嬢様、真空にはなりませんが、ミハイル様の心拍数は先ほどから戦場における突撃直前の数値を超えております。……おそらく、今日がその『決戦の日』なのでしょう」
セバスが銀のトレイを置くのと同時に、扉が静かに……しかし、並々ならぬ決意を秘めた重みで開かれた。
現れたのは、磨き上げられた儀礼用の白銀の甲冑に身を包んだミハイルだった。
「……ナターシャ嬢。いや、ナターシャ。……静聴を願いたい」
ミハイルは、ナターシャのベッドの横に、鋼鉄の音が響くほど勢いよく跪いた。
その手には、王都の予算一年分に匹敵するような、巨大な魔石が埋め込まれた指輪が握られている。
「ヴィンセントの騒動は終わった。王都は浄化され、君の潔白は……いや、君の『聖性』は今や全土に知れ渡っている。……だが、私は不安なのだ」
「……何がですの、ミハイル様。私のプリンの在庫でも切れたのかしら?」
「違う! 君のような、これほどまでに有能で、慈悲深く、かつ圧倒的な合理性を持つ女性を、世界が放っておくはずがない! また別の愚か者が、君の静寂を奪いに来るかもしれない。……それが、私は耐えられないんだ!」
ミハイルは、ナターシャの(布団から出ている)手を、壊れ物を扱うように両手で包み込んだ。
「ナターシャ、私と結婚してくれ! このヴォルゴのすべてを君に捧げる! 私の地位も、名誉も、そしてこの命さえも、君が『一生、寝て暮らすため』の防壁にしたいんだ!」
ナターシャは、パチパチと瞬きをした。
プロポーズ。それは人生の重大事だ。
しかし、彼女の脳内で即座に行われた計算は、別の方向へと向かっていた。
「……ミハイル様。それはつまり、私が『領主夫人』という肩書きを得ることで、他の誰からも面倒な招待状が届かなくなり、公式行事はすべて貴方が代行してくださる……という理解でよろしいのかしら?」
「当然だ! 君は一歩も城から出る必要はない! むしろ、君が動くことはこの領の損失だ。君はただ、最奥の寝室で『平和の象徴』として微睡んでいてくれればいい!」
「……朝食の時間は? 私は十時より前に起こされると、その日の生産性がゼロ以下になりますわ」
「君のバイオリズムが最優先だ! 私が城中の時計を三時間遅らせてでも、君の十時を死守しよう!」
「……お風呂の温度は? 私は常に四十一・五度をキープしていないと、ふて寝する癖がありますの」
「魔導士を二十四時間配備して、零点一度の狂いもなく維持させよう! 湯船の中で寝落ちしても溺れないよう、私がずっと支えていてもいい!」
ミハイルの瞳には、一切の迷いがない。
彼は本気だ。本気で、ナターシャを「世界で最も快適なニート」にしようとしている。
「……いいわね。悪くない条件だわ。……セバス、今の内容をすべて盛り込んだ『婚姻契約書兼・絶対安眠保証書』を三通ほど作成して。ミハイル様、血判でいいですから押してくださる?」
「喜んで! 指の一本や二本、今すぐここで切り落としてでも!」
「いえ、そこまでされると血の匂いで私が寝られなくなりますので、インクで結構ですわ」
ナターシャは、ようやくベッドから上半身を(セバスの助けを借りて)起こした。
そして、ミハイルが差し出した巨大な指輪を、じっと見つめた。
「……ミハイル様。一つだけ、確認しておきたいことがありますわ」
「何だ! 領地を半分、君の名義にするか? それとも、王宮を買い取って君の寝室に改造するか?」
「……そんなことではありません。……貴方、本当に、私みたいな『何もしない女』が妻でいいのですか? 貴方はもっと、領地のために働き、貴方を支える献身的な女性を選ぶべきではなくて?」
ナターシャは、ほんの少しだけ、本気の問いを投げかけた。
彼女は自分の「怠惰」を誇っているが、それが世間一般の「愛」とは程遠いことも知っていた。
しかし、ミハイルは、まるで太陽のような眩しい笑顔で答えた。
「……ナターシャ。君は勘違いをしている。君が『何もしない』こと。それこそが、私にとって最大の献身なのだ」
「……はい?」
「君が幸せそうに寝ているだけで、この領の水は澄み、民は豊かになり、私は明日も戦えると勇気をもらえる。君の『安眠』は、この地の『平和』のバロメーターなのだ。君が起きている時間は、私にとって『何か問題が起きているのではないか』と不安になる時間でしかない!」
「……あの、ミハイル様。それはもう、愛を通り越して信仰ではありません?」
「ああ、信仰だ! 私は君という『怠惰の女神』の、最初で最後の信徒になることを誓ったのだからな!」
ミハイルは、ナターシャの手に誓いの接吻を落とした。
その熱い感触に、ナターシャは「ああ、これなら冬でも湯たんぽ代わりになりそうね」と、失礼極まりない感想を抱きながら、満足げに微笑んだ。
「……分かりました。ミハイル・ヴォルゴ。貴方を私の『一生ものの枕』として採用してあげますわ」
「……ナターシャ!! ありがとうございます!!」
ミハイルの咆哮が別荘を揺らした。
セバスは「これで、お嬢様の『だらだら人生』も、公的な保障を得ましたね」と、どこからか取り出したシャンパンの栓を抜いた。
ナターシャは、ミハイルに贈られた指輪の、あまりの重さに「……やっぱり、左手首が腱鞘炎になりそうだわ。ミハイル様、これ、ネックレスに作り直してくださる?」と、さっそく次の要求を始めた。
「もちろんだ! 軽くて頑丈な、最高級のオリハルコンで鎖を作らせよう!」
辺境の冷徹な領主が、一人の令嬢の「わがまま」を叶えるための「全自動・御用聞き」へと完全進化した瞬間であった。
ナターシャは、ミハイルの広い胸に(寄りかかるのが楽だという理由で)頭を預け、そのまま四度目の昼寝へと誘われていった。
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