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続・一章 始まりの朝
2 不機嫌な目覚め
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その日の朝、俺はすこぶる機嫌が悪かった。
着替えを済ませて居間に向かう廊下の途中、同じく着替え終わって部屋から出るところだった虎獣人と鉢合わせる。
「あ、えと、ルー……?」
彼の名前はウォルサム・サマンクルガ。
俺の店の従業員で、同居人で、恋人。
おずおずと話しかけてくる彼の前を素通りして、俺は居間に向かった。
(発情の次の日はすぐに起こしてっていつも言ってるのに……!)
俺には、ちょっと他人に言えない秘密がある。
淫紋。
本来は性機能不全の治療などに使われる呪印だが、精力増強の呪術として簡易的なものがゴシップ紙や怪しい噂として出回ることがある。
当然、人目を盗んでそれに飛びつく少年少女、盛りの収まらない年配方も多くいて、かつて俺もそんな一人だった。
違うとすれば、独学で滅茶苦茶なアレンジをした結果、奇々怪々なオリジナル呪印を作り上げてしまったということか。
俺の呪印はただ複雑と言うだけでなく、子供の身体が成長するエネルギー、変化しようとする力を吸い上げて、まるで寄生生物のように自らその術式を変化させていった。
結果、俺は子供の姿から成長することができなくなり、淫紋は俺の体の一部と言えるほどまでに変異しなじんでしまっている。
だから俺はもう、この呪印と死ぬまで共存していくしかない。
それはまあ、ただの自業自得だとわかっている。
けれど最近になって、またこの呪印がおかしな変化を遂げていた。
心当たりはある。
ウォルと付き合うことになったきっかけの事件、彼が俺に乱暴を働いたあの時からだ。
そのくらいの時期から俺の呪印は、普段はむしろ前よりずっと落ち着いているのに、定期的に魔除けの恥ずかしいパンツをつけているにもかかわらず過剰に活性化するようになっていた。
俺の呪印を診てくれているクープ先生――ちょうど今、居間で待たせている熊獣人――が言うには、俺の呪印の本当の効果は『宿主と相性のいい人物を引き寄せるフェロモンを出すために宿主を発情させる』というもので、その相手がウォルだったんだ。
そしてその相手が見つかったことで、呪印がまた何か違う効果を発揮し始めたのだろう、と言う話だった。
発情と名付けたそれが初めて来た時、俺はどうしていいかわからなくて、体を弄っても弄っても欲望が高まるばかりでちっとも満足できず、頭が朦朧として、後で聞いたら床に頭をぶつけたり、自分で自分の腕を噛んだりしていたらしい。
正直に言えば、怖い。
あの時ウォルが来てくれなかったら、そして今も、発情が来た時にウォルがいてくれなかったら、自分がどうなってしまうのか、わからない。
だから彼にはすごく感謝しているし、二人ひとつの場所で暮らすこの生活も、結構気に入っている。
はっきり言うとすごく、幸せだ。
(だとしても、だ!)
それはそれとしても、今朝みたいな所業については、やはり受け入れがたい。
発情が来た次の日、俺は必ず寝坊する。
もともと寝起きはいいはずなんだけど、何故かこの日だけは起きられないんだ。
そして、おかしな目の覚め方がセットでやってくる。
単純に言えば寝ぼけるって事なんだけど、実際には意識はちゃんとしてるし、その時の記憶もはっきり覚えている。
頭の中の考えるという部分だけが眠っていて、それ以外は目覚めているような感じだ。
その状態の俺はまるで幼い子供に戻ったかのように一人が不安で、彼のぬくもりが欲しくて、その匂いに包まれると安心して、彼の姿を探して、掴まえたらずっと離れたくないと思ってしまう。
大きな音や、軽く叩いたりしてくれるだけですぐに目が覚めるというのに、最初のうちはそうやって起こしてくれていたのに、いつからか彼は寝ぼけた俺をそのままにして、赤ん坊かぬいぐるみのように弄んだ後で完全に目を覚ました俺を見ながらニヤニヤ笑うのだ。
夢の続きから突然現実に引き戻されて、それが夢じゃなかったと気付いたとき、いつも俺がどれだけ恥ずかしい思いをしているか。
それが二人だけの秘密なら、本当は恥ずかしくてたまらないけど、秘密のじゃれ合いってことにするのは百歩譲ろう。
だが今日、その様子を第三者に見られてしまった。
見た目は子供みたいでも俺は今年で27だぞ。
おっさん手前の年齢にして、こんな屈辱的な朝があっていいだろうか。
もう恥ずかしいやら腹立たしいやら、ぐちゃぐちゃの感情をそのままに、足音を立てながら居間に向かう。
居間に戻ると待たせていた熊獣人の姿が目に入って、挨拶するより先に先ほどの出来事が思い出されて、俺は言葉に詰まって赤面してしまった。
「お見苦しいところをお見せました」
すぐには顔を見ることができず、目線を落としながら軽く頭を下げる。
律儀に立ったまま待っていてくれた熊獣人、クープ先生に空いている席を促して、俺も食べかけの朝食が残る食卓についた。
「いやぁ、僕のほうこそいつも間が悪くてすまないね」
「いえ……」
そこに、同居人の虎獣人が罰の悪そうに入ってくる。
俺はそっちの方は目に入れないように顔をそらしながら、彼が席に着くのを待ってクープ先生に切り出した。
「それで、今日はどんな用件で?」
「ああうん。そろそろ結界の定期検査の時期なのは知ってるかな?」
ああ、もうそんな時期だったのか。
と、俺は思ったが、ウォルには馴染みのない話だったようで、首をかしげている。
そして、おそらく何も考えずに問い返していた。
「結界って?」
その瞬間、クープ先生の目つきが変わるのがわかった。
ああ、やったなこれは。
俺はすぐに気が付いて、静かに心の中で手を合わせる。
「ここみたいなある程度大きな都市には、魔獣の侵入を防ぐための結界が張られているのは知っているよね。この結界の維持のために年に一度、力のある魔術師たちを集めて結界石、要するに術式を維持するための核、魔力の触媒だね。これに魔力を補充する必要があるんだ。しかし何を隠そう、この結界という術が実は呪術に分類されるものだということはあまり知られていない」
急に饒舌になったクープ先生に、ウォルの表情があからさまに強張る。
ちらちらとこちらに情けない顔で視線を送ってくるが、知らん。
今日のところは助け舟を出すつもりはない。
地雷を踏んだのは彼だし、しばらくは責任をもって先生の講義を受けてもらおう。
「そもそも結界とは何なのか? これには魔獣が本能的に行使している呪術、いやあえてここは原始魔術と呼ぼう。一般に、"縄張り"と"隠密"と呼ばれているものが関係してくる。魔獣は自分の力を誇示するため、常に魔力によって周囲の様子を観察している。これが"縄張り"だ。そうやって己の力を誇示することで、魔獣同士の無駄な衝突を未然に防いでいるんだね。逆に縄張りの主を刺激しないように自らの魔力を抑えて気配を断つ術、これが"隠密"だ。この"縄張り"と呼ばれている原始魔術、実は結界はそれと全く同じものなのだよ。つまり、そこに強い力を持った魔獣がいると錯覚させることで弱い魔獣が近寄らないようにしているわけだ。しかし、この結界には重大な欠点がある。同程度の"縄張り"を持つ魔獣同士が鉢合わせたとき、どちらかが"隠密"によって戦意のないことを伝えなければ、それは縄張り争いの合図、相手への挑発となってしまう。かつて都市部にばかり来襲した大型の魔獣の存在は、この影響によるものだったんだね。結界術を危ぶむ声は開発当時から文献に残っているけど、魔物を遠ざける効果もまた実証されていたことから詳しい理由が判明するまでまったくの謎だった。そうしている間に、結界術は全世界に広まってしまった。その結果、今やどの国も結界を手放せない状態になってしまっている。何故か。簡単なことだ。結界が弱まるとは、その縄張りのヌシに異変が起きたということ。そうなれば、あたり一帯の魔獣の勢力図が大きく変動することになる。長年、結界と言うヌシの威圧によって大人しくしていた強い魔獣、あるいはその威光に守られていた弱い魔獣、それらが一斉にパニックを起こし、暴走する。そうした魔獣たちの暴動の記録は、授業じゃなくても聞いたことがあるだろう。そう、魔獣ハンターたちの英雄譚だ。現代では田舎の害獣駆除業者扱いされている彼らも、百年ほど前までは本当に英雄だったのだよ。都市を襲撃する大型魔獣が今では報告もないくらい減ったこと、それにより収入が悪くなったことで素行の悪い者が増えて、すっかり落ちぶれてしまったけどね」
つらつらと淀みなく語り続けるクープ先生に、ウォルの顔がみるみる憔悴していくのが見える。
いつもなら先生がこうなったときは俺が止めて軌道修正するんだけど、いい機会だから先生の地雷を踏んだらどうなるか、身をもって体感して貰おう。
―――
「そう!全ての魔術は人が人を思う事を形に成す力、呪術から生まれたのだよ!呪術は全ての原点、そして未だ術式が解明されていない多くの現象を内包するブラックボックス!だからこそ人は呪いを恐れ、呪いにすがる。奇跡や祝福、浄化と呼ばれるものも魔術学的に見れば呪術に分類されるというのは何とも奇妙で―――」
「あの、先生?」
十数分、休むことなく語り続けるクープ先生に、流石の俺も止めに入った。
話の内容も結界のことから呪術の話にと、ズレにズレている。
「何かな?」
「今日の用件をまだうかがってないんですが?」
「ああうん。そう……だったね。また話が脱線しちゃってたかな?」
やっと我に返った先生は、決まりが悪そうに顔の毛並みをくしゃくしゃと弄った。
隣で全身げんなりとしていたウォルが、ようやく話が進むと胸をなでおろしている。
「ええと、そう。結界の定期検査の話なんだけど、言ったかな。結界は実は魔獣同士の縄張り争いに使われる魔力による威嚇と同じ。
だから魔獣からすれば人類の都市はその地方一帯を治める強大な縄張りのヌシみたいなもので、だから結界と似た魔力を持っている人類に牙をむく魔獣は今やすっかり影を潜めている。
その代わり、今やどの国も、都市も、結界を手放せない状況が続いている。結界術が広まる前にその本質が解明されていたらそんなことにはならなかっただろうけど。
ただこれは悪いことばかりじゃない。
結界と言うヌシが何十年何百年と居座ってくれるおかげで、ここ百年余り、魔獣災害と呼べるほどの大きな災害は起きていないんだ。
しかし、だからこそ結界の維持は絶対で、人類共通の悩みの種となっている」
「そうですね」
「ところが今年、ちょっと変化が起きそうなんだよ」
「と、いいますと?」
「結界は危険性もあるけど、大型魔獣が姿を消して久しい現代、問題点はその維持コストだけだ。
その問題が解決するある画期的な術式が、もう少しで正式に採用されることになりそうなんだ。
その貢献者として、僕の名前も並ぶことになっている」
「それって……まさか新術式の登録ですか!?」
思わず声が大きくなっていた。
また地雷を踏まないようにか、何かを言いかけて慌てて口を塞いだウォルも大きく目を見開いている。
術式、それは魔術の設計図のようなもの。
古くは呪術に用いられた魔法陣を起源としていて、これを精神上に再現、つまりイメージとして作り上げ、魔力というエネルギーによって物理現象を発現させるのが魔術だ。
対して、その術式がはっきりしていないもの、現象が不確かなもの、物理的には何の作用もしないもの等、魔術ではないその他は総称して呪術と呼ばれている。
その成り立ちの違いから、魔術師と呪術師はその研究理念が根本的に異なる。
曰く、
『魔術を研究する者は術式の扱い方に研鑽を重ねるが、呪術を研究する者は術式そのものの開発、再現に心血を注ぐ。
それが広漠な知識の原野から砂粒を探し当てるような行いだったとしても、一粒の宝石を追い求める浪漫は止められない』
と、クープ先生は呪術の魅力を語るときに何度も口にしていた。
新しい術式の開発者に先生の名が並ぶ。
それはつまり、呪術師として一つの到達点、先生の言う浪漫が、ついに実を結んだということ。
自分のことではないのに、感慨深くて胸が高鳴った。
「おめでとうございます!先生」
「お、おめでとう。保険医」
ところが、
「まあ、うん。そうなんだけどね」
と、先生は妙に歯切れが悪い。
俺もウォルも、二人で首をひねった。
いつもの先生なら、ここで饒舌になって登録される術式の説明を頼んでいないところまでつらつらと語りだしそうなもんだけど。
術式が登録されることで何かまずいことでもあるのだろうか。
「実は、ここから先が今日の本題。今回採用された術式につけられた名前は"集魔"。
効果は、『人が生きているだけで余剰に垂れ流している魔力の上澄みだけを吸い上げる術式』だ。
物理現象を起こすわけじゃないから、分類は呪術になるね」
どこかで聞いたことのある内容に、俺は硬まった。
いや、まさか、その術式って……
「この術式が採用されれば、定期的に力のある魔術師を集めて結界石に魔力を補充しなくても、ただ街が栄えて人が暮らしているだけで半永久的に結界の維持が可能になる。
現在、最後の実証実験が行われているということだ。
成功すれば、晴れてこの術式は新術式として正式登録されることになる」
「……先生。まさかなんですけど、その術式って」
「うん。ルー君の淫紋の研究データから作られた術式なんだ」
サーっと、体温が下がって気が遠くなりそうになる。
それを引き留めたのは、とどめの一言だった。
「ついては、術式の開発者の中にルー君の名前を公表したいんだけど」
「絶対に嫌です!!!」
俺は腹の底から叫んでいた。
着替えを済ませて居間に向かう廊下の途中、同じく着替え終わって部屋から出るところだった虎獣人と鉢合わせる。
「あ、えと、ルー……?」
彼の名前はウォルサム・サマンクルガ。
俺の店の従業員で、同居人で、恋人。
おずおずと話しかけてくる彼の前を素通りして、俺は居間に向かった。
(発情の次の日はすぐに起こしてっていつも言ってるのに……!)
俺には、ちょっと他人に言えない秘密がある。
淫紋。
本来は性機能不全の治療などに使われる呪印だが、精力増強の呪術として簡易的なものがゴシップ紙や怪しい噂として出回ることがある。
当然、人目を盗んでそれに飛びつく少年少女、盛りの収まらない年配方も多くいて、かつて俺もそんな一人だった。
違うとすれば、独学で滅茶苦茶なアレンジをした結果、奇々怪々なオリジナル呪印を作り上げてしまったということか。
俺の呪印はただ複雑と言うだけでなく、子供の身体が成長するエネルギー、変化しようとする力を吸い上げて、まるで寄生生物のように自らその術式を変化させていった。
結果、俺は子供の姿から成長することができなくなり、淫紋は俺の体の一部と言えるほどまでに変異しなじんでしまっている。
だから俺はもう、この呪印と死ぬまで共存していくしかない。
それはまあ、ただの自業自得だとわかっている。
けれど最近になって、またこの呪印がおかしな変化を遂げていた。
心当たりはある。
ウォルと付き合うことになったきっかけの事件、彼が俺に乱暴を働いたあの時からだ。
そのくらいの時期から俺の呪印は、普段はむしろ前よりずっと落ち着いているのに、定期的に魔除けの恥ずかしいパンツをつけているにもかかわらず過剰に活性化するようになっていた。
俺の呪印を診てくれているクープ先生――ちょうど今、居間で待たせている熊獣人――が言うには、俺の呪印の本当の効果は『宿主と相性のいい人物を引き寄せるフェロモンを出すために宿主を発情させる』というもので、その相手がウォルだったんだ。
そしてその相手が見つかったことで、呪印がまた何か違う効果を発揮し始めたのだろう、と言う話だった。
発情と名付けたそれが初めて来た時、俺はどうしていいかわからなくて、体を弄っても弄っても欲望が高まるばかりでちっとも満足できず、頭が朦朧として、後で聞いたら床に頭をぶつけたり、自分で自分の腕を噛んだりしていたらしい。
正直に言えば、怖い。
あの時ウォルが来てくれなかったら、そして今も、発情が来た時にウォルがいてくれなかったら、自分がどうなってしまうのか、わからない。
だから彼にはすごく感謝しているし、二人ひとつの場所で暮らすこの生活も、結構気に入っている。
はっきり言うとすごく、幸せだ。
(だとしても、だ!)
それはそれとしても、今朝みたいな所業については、やはり受け入れがたい。
発情が来た次の日、俺は必ず寝坊する。
もともと寝起きはいいはずなんだけど、何故かこの日だけは起きられないんだ。
そして、おかしな目の覚め方がセットでやってくる。
単純に言えば寝ぼけるって事なんだけど、実際には意識はちゃんとしてるし、その時の記憶もはっきり覚えている。
頭の中の考えるという部分だけが眠っていて、それ以外は目覚めているような感じだ。
その状態の俺はまるで幼い子供に戻ったかのように一人が不安で、彼のぬくもりが欲しくて、その匂いに包まれると安心して、彼の姿を探して、掴まえたらずっと離れたくないと思ってしまう。
大きな音や、軽く叩いたりしてくれるだけですぐに目が覚めるというのに、最初のうちはそうやって起こしてくれていたのに、いつからか彼は寝ぼけた俺をそのままにして、赤ん坊かぬいぐるみのように弄んだ後で完全に目を覚ました俺を見ながらニヤニヤ笑うのだ。
夢の続きから突然現実に引き戻されて、それが夢じゃなかったと気付いたとき、いつも俺がどれだけ恥ずかしい思いをしているか。
それが二人だけの秘密なら、本当は恥ずかしくてたまらないけど、秘密のじゃれ合いってことにするのは百歩譲ろう。
だが今日、その様子を第三者に見られてしまった。
見た目は子供みたいでも俺は今年で27だぞ。
おっさん手前の年齢にして、こんな屈辱的な朝があっていいだろうか。
もう恥ずかしいやら腹立たしいやら、ぐちゃぐちゃの感情をそのままに、足音を立てながら居間に向かう。
居間に戻ると待たせていた熊獣人の姿が目に入って、挨拶するより先に先ほどの出来事が思い出されて、俺は言葉に詰まって赤面してしまった。
「お見苦しいところをお見せました」
すぐには顔を見ることができず、目線を落としながら軽く頭を下げる。
律儀に立ったまま待っていてくれた熊獣人、クープ先生に空いている席を促して、俺も食べかけの朝食が残る食卓についた。
「いやぁ、僕のほうこそいつも間が悪くてすまないね」
「いえ……」
そこに、同居人の虎獣人が罰の悪そうに入ってくる。
俺はそっちの方は目に入れないように顔をそらしながら、彼が席に着くのを待ってクープ先生に切り出した。
「それで、今日はどんな用件で?」
「ああうん。そろそろ結界の定期検査の時期なのは知ってるかな?」
ああ、もうそんな時期だったのか。
と、俺は思ったが、ウォルには馴染みのない話だったようで、首をかしげている。
そして、おそらく何も考えずに問い返していた。
「結界って?」
その瞬間、クープ先生の目つきが変わるのがわかった。
ああ、やったなこれは。
俺はすぐに気が付いて、静かに心の中で手を合わせる。
「ここみたいなある程度大きな都市には、魔獣の侵入を防ぐための結界が張られているのは知っているよね。この結界の維持のために年に一度、力のある魔術師たちを集めて結界石、要するに術式を維持するための核、魔力の触媒だね。これに魔力を補充する必要があるんだ。しかし何を隠そう、この結界という術が実は呪術に分類されるものだということはあまり知られていない」
急に饒舌になったクープ先生に、ウォルの表情があからさまに強張る。
ちらちらとこちらに情けない顔で視線を送ってくるが、知らん。
今日のところは助け舟を出すつもりはない。
地雷を踏んだのは彼だし、しばらくは責任をもって先生の講義を受けてもらおう。
「そもそも結界とは何なのか? これには魔獣が本能的に行使している呪術、いやあえてここは原始魔術と呼ぼう。一般に、"縄張り"と"隠密"と呼ばれているものが関係してくる。魔獣は自分の力を誇示するため、常に魔力によって周囲の様子を観察している。これが"縄張り"だ。そうやって己の力を誇示することで、魔獣同士の無駄な衝突を未然に防いでいるんだね。逆に縄張りの主を刺激しないように自らの魔力を抑えて気配を断つ術、これが"隠密"だ。この"縄張り"と呼ばれている原始魔術、実は結界はそれと全く同じものなのだよ。つまり、そこに強い力を持った魔獣がいると錯覚させることで弱い魔獣が近寄らないようにしているわけだ。しかし、この結界には重大な欠点がある。同程度の"縄張り"を持つ魔獣同士が鉢合わせたとき、どちらかが"隠密"によって戦意のないことを伝えなければ、それは縄張り争いの合図、相手への挑発となってしまう。かつて都市部にばかり来襲した大型の魔獣の存在は、この影響によるものだったんだね。結界術を危ぶむ声は開発当時から文献に残っているけど、魔物を遠ざける効果もまた実証されていたことから詳しい理由が判明するまでまったくの謎だった。そうしている間に、結界術は全世界に広まってしまった。その結果、今やどの国も結界を手放せない状態になってしまっている。何故か。簡単なことだ。結界が弱まるとは、その縄張りのヌシに異変が起きたということ。そうなれば、あたり一帯の魔獣の勢力図が大きく変動することになる。長年、結界と言うヌシの威圧によって大人しくしていた強い魔獣、あるいはその威光に守られていた弱い魔獣、それらが一斉にパニックを起こし、暴走する。そうした魔獣たちの暴動の記録は、授業じゃなくても聞いたことがあるだろう。そう、魔獣ハンターたちの英雄譚だ。現代では田舎の害獣駆除業者扱いされている彼らも、百年ほど前までは本当に英雄だったのだよ。都市を襲撃する大型魔獣が今では報告もないくらい減ったこと、それにより収入が悪くなったことで素行の悪い者が増えて、すっかり落ちぶれてしまったけどね」
つらつらと淀みなく語り続けるクープ先生に、ウォルの顔がみるみる憔悴していくのが見える。
いつもなら先生がこうなったときは俺が止めて軌道修正するんだけど、いい機会だから先生の地雷を踏んだらどうなるか、身をもって体感して貰おう。
―――
「そう!全ての魔術は人が人を思う事を形に成す力、呪術から生まれたのだよ!呪術は全ての原点、そして未だ術式が解明されていない多くの現象を内包するブラックボックス!だからこそ人は呪いを恐れ、呪いにすがる。奇跡や祝福、浄化と呼ばれるものも魔術学的に見れば呪術に分類されるというのは何とも奇妙で―――」
「あの、先生?」
十数分、休むことなく語り続けるクープ先生に、流石の俺も止めに入った。
話の内容も結界のことから呪術の話にと、ズレにズレている。
「何かな?」
「今日の用件をまだうかがってないんですが?」
「ああうん。そう……だったね。また話が脱線しちゃってたかな?」
やっと我に返った先生は、決まりが悪そうに顔の毛並みをくしゃくしゃと弄った。
隣で全身げんなりとしていたウォルが、ようやく話が進むと胸をなでおろしている。
「ええと、そう。結界の定期検査の話なんだけど、言ったかな。結界は実は魔獣同士の縄張り争いに使われる魔力による威嚇と同じ。
だから魔獣からすれば人類の都市はその地方一帯を治める強大な縄張りのヌシみたいなもので、だから結界と似た魔力を持っている人類に牙をむく魔獣は今やすっかり影を潜めている。
その代わり、今やどの国も、都市も、結界を手放せない状況が続いている。結界術が広まる前にその本質が解明されていたらそんなことにはならなかっただろうけど。
ただこれは悪いことばかりじゃない。
結界と言うヌシが何十年何百年と居座ってくれるおかげで、ここ百年余り、魔獣災害と呼べるほどの大きな災害は起きていないんだ。
しかし、だからこそ結界の維持は絶対で、人類共通の悩みの種となっている」
「そうですね」
「ところが今年、ちょっと変化が起きそうなんだよ」
「と、いいますと?」
「結界は危険性もあるけど、大型魔獣が姿を消して久しい現代、問題点はその維持コストだけだ。
その問題が解決するある画期的な術式が、もう少しで正式に採用されることになりそうなんだ。
その貢献者として、僕の名前も並ぶことになっている」
「それって……まさか新術式の登録ですか!?」
思わず声が大きくなっていた。
また地雷を踏まないようにか、何かを言いかけて慌てて口を塞いだウォルも大きく目を見開いている。
術式、それは魔術の設計図のようなもの。
古くは呪術に用いられた魔法陣を起源としていて、これを精神上に再現、つまりイメージとして作り上げ、魔力というエネルギーによって物理現象を発現させるのが魔術だ。
対して、その術式がはっきりしていないもの、現象が不確かなもの、物理的には何の作用もしないもの等、魔術ではないその他は総称して呪術と呼ばれている。
その成り立ちの違いから、魔術師と呪術師はその研究理念が根本的に異なる。
曰く、
『魔術を研究する者は術式の扱い方に研鑽を重ねるが、呪術を研究する者は術式そのものの開発、再現に心血を注ぐ。
それが広漠な知識の原野から砂粒を探し当てるような行いだったとしても、一粒の宝石を追い求める浪漫は止められない』
と、クープ先生は呪術の魅力を語るときに何度も口にしていた。
新しい術式の開発者に先生の名が並ぶ。
それはつまり、呪術師として一つの到達点、先生の言う浪漫が、ついに実を結んだということ。
自分のことではないのに、感慨深くて胸が高鳴った。
「おめでとうございます!先生」
「お、おめでとう。保険医」
ところが、
「まあ、うん。そうなんだけどね」
と、先生は妙に歯切れが悪い。
俺もウォルも、二人で首をひねった。
いつもの先生なら、ここで饒舌になって登録される術式の説明を頼んでいないところまでつらつらと語りだしそうなもんだけど。
術式が登録されることで何かまずいことでもあるのだろうか。
「実は、ここから先が今日の本題。今回採用された術式につけられた名前は"集魔"。
効果は、『人が生きているだけで余剰に垂れ流している魔力の上澄みだけを吸い上げる術式』だ。
物理現象を起こすわけじゃないから、分類は呪術になるね」
どこかで聞いたことのある内容に、俺は硬まった。
いや、まさか、その術式って……
「この術式が採用されれば、定期的に力のある魔術師を集めて結界石に魔力を補充しなくても、ただ街が栄えて人が暮らしているだけで半永久的に結界の維持が可能になる。
現在、最後の実証実験が行われているということだ。
成功すれば、晴れてこの術式は新術式として正式登録されることになる」
「……先生。まさかなんですけど、その術式って」
「うん。ルー君の淫紋の研究データから作られた術式なんだ」
サーっと、体温が下がって気が遠くなりそうになる。
それを引き留めたのは、とどめの一言だった。
「ついては、術式の開発者の中にルー君の名前を公表したいんだけど」
「絶対に嫌です!!!」
俺は腹の底から叫んでいた。
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記憶に翻弄され頭は混乱する中、魔石化するという残酷な決断を下そうとするが――。
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0時,6時,12時,18時に2話ずつ更新
転生したら、主人公の宿敵(でも俺の推し)の側近でした
リリーブルー
BL
「しごとより、いのち」厚労省の過労死等防止対策のスローガンです。過労死をゼロにし、健康で充実して働き続けることのできる社会へ。この小説の主人公は、仕事依存で過労死し異世界転生します。
仕事依存だった主人公(20代社畜)は、過労で倒れた拍子に異世界へ転生。目を覚ますと、そこは剣と魔法の世界——。愛読していた小説のラスボス貴族、すなわち原作主人公の宿敵(ライバル)レオナルト公爵に仕える側近の美青年貴族・シリル(20代)になっていた!
原作小説では悪役のレオナルト公爵。でも主人公はレオナルトに感情移入して読んでおり彼が推しだった! なので嬉しい!
だが問題は、そのラスボス貴族・レオナルト公爵(30代)が、物語の中では原作主人公にとっての宿敵ゆえに、原作小説では彼の冷酷な策略によって国家間の戦争へと突き進み、最終的にレオナルトと側近のシリルは処刑される運命だったことだ。
「俺、このままだと死ぬやつじゃん……」
死を回避するために、主人公、すなわち転生先の新しいシリルは、レオナルト公爵の信頼を得て歴史を変えようと決意。しかし、レオナルトは原作とは違い、どこか寂しげで孤独を抱えている様子。さらに、主人公が意外な才覚を発揮するたびに、公爵の態度が甘くなり、なぜか距離が近くなっていく。主人公は気づく。レオナルト公爵が悪に染まる原因は、彼の孤独と裏切られ続けた過去にあるのではないかと。そして彼を救おうと奔走するが、それは同時に、公爵からの執着を招くことになり——!?
原作主人公ラセル王太子も出てきて話は複雑に!
見どころ
・転生
・主従
・推しである原作悪役に溺愛される
・前世の経験と知識を活かす
・政治的な駆け引きとバトル要素(少し)
・ダークヒーロー(攻め)の変化(冷酷な公爵が愛を知り、主人公に執着・溺愛する過程)
・黒猫もふもふ
番外編では。
・もふもふ獣人化
・切ない裏側
・少年時代
などなど
最初は、推しの信頼を得るために、ほのぼの日常スローライフ、かわいい黒猫が出てきます。中盤にバトルがあって、解決、という流れ。後日譚は、ほのぼのに戻るかも。本編は完結しましたが、後日譚や番外編、ifルートなど、続々更新中。
美少年に転生したらヤンデレ婚約者が出来ました
SEKISUI
BL
ブラック企業に勤めていたOLが寝てそのまま永眠したら美少年に転生していた
見た目は勝ち組
中身は社畜
斜めな思考の持ち主
なのでもう働くのは嫌なので怠惰に生きようと思う
そんな主人公はやばい公爵令息に目を付けられて翻弄される
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