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傲慢

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ルエナがすっかり定位置となってしまった自室のベッドの上で、所在なげに窓から見える空を見上げていると、突然バタバタという足音と、微かに焦る侍女たちの声が聞こえた。
珍しいことだ。
王族の次に家格のある公爵家に勤める使用人たちは、いつでも自分たちを律することが優先される。

いや──そうだったろうか──ついこの間も、何か嫌なことが──

今まで摂取していたお茶に混ぜられていた薬物の効果がゆっくりと抜けるにつれて記憶が混濁し、気力も同時に消えていくような気がする。
けっして狭くはなくても運動することを目的とした部屋ではないため、積極的に動こうともせず、お気に入りの玩具を取り上げられて拗ねる子供のように、無理やり入室する兄以外は侍女すらも下がらせてずっとシーナのスケッチブックを見ていた。
今ではそれが誰の手によるものなのか、ちゃんと認識しているのかもわからない。
話す言葉も少なくなって、まるでいつか石のようになりたいと思っているようにも見える。
そしてまた兄が無理やり入ってきても、もう目を上げることすらしなくなった。

パラリ。

音を立てて新しい紙が手に持ったままのスケッチブックの上に落ちてきた。
見覚えのあるその景色の中の館。
茶色いコロコロした犬と、黒と茶色と白の大きな、でもまだ仔犬だという犬。
その犬よりもひと回り大きいだけのポニーという種類の馬。
本物の馬は大きすぎて怖くて近寄れなかったルエナのためだと言って、サーカスを呼んでいろいろな動物に触らせてもらった。
くすんだ黒っぽい髪の男の子が茶色い帽子を目深に被り、大きなキャンバスをグッと高さを下げたイーゼルに立てかけ、九歳の肖像画を描いてくれたっけ。
そうだ──あの絵は二枚あって、ひとつはこの館に。
もうひとつは──
「……戻りたい」
ポツリと言葉が零れた。

暖かな日。
あの館はいずれ王太子が妻を迎えた時に住むための宮で、ルエナの誕生日に合わせてお披露目をしてくれたのだ。
いつも優しくて、楽しくて、苦しいことなんてなかったのに。
それが一変したのが、王太子が側に招いた平民の男の子を前にした時である。
「下がりなさい!あなたのような平民が、おそれおおくも王太子様の側に侍るなどあってはなりません!身の程を弁えて、ずっと頭を下げていなさい!」
あの時、ルエナは『自分が正しいことをした』という絶対的な自信を持って、あの下賤な者を遠ざけた。
たとえ王太子が人を使って呼んだとしても、側に上がるのは不敬だと断るべきだと思ったからだ。
まさか王族に呼ばれた平民が、自ら辞退するなど不敬罪として刑罰に値するなどとは思いもせず。
しかもヘラヘラと軽薄な笑みを浮かべ、躾のなっていない犬のように飛び跳ねて側に来るなど──
「……ルエナ。君のその態度や物言いは、あまり美しくはないよ。君の方が態度を改めるべきで、招いた客を笑顔で迎えることをするべきじゃないのか?」
「なっ…何ですって!?我が家の女家庭教師の教えが間違っていると言いますの?!平民は常に地面に這い蹲り、王侯貴族と目を合わせてはならないと教えていただきましたわ!我が家の使用人たちの中で平民はおりません!」
実際は上級使用人の中に平民がいないだけで、ディーファン公爵家の厩や厨房、湯沸かし、洗濯などはすべて平民たちを雇って担ってもらい、それなりに平民たちに対して義務を果たしていることをルエナが知らなかっただけである。
身の程知らずは令嬢の方だというのに、その言葉を窘める者は誰もいなかった。
いや──あまりの失言に誰もが言葉を失い、気分が悪いと言って宮に与えられた客室に戻るルエナを止めることができなかったのである。


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