ハルホール

沢麻

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俺と穴を開けること③

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 俺は指名手配をされているような気分になった。もう何処にも気軽に出歩くことはできない。メンタルクリニックにも行けないかもしれない。
 下唇の傷が問題だというのに、俺は混乱し、また下唇に二ヶ所も穴を開けてしまった。完全に狂っていた。
 先ほどまで俺の部屋にまたブラックタイガーがいた。本物かと思い、俺は夢中で奴を捕まえようとした。しかし俊敏な動きで、俺は完璧に踊らされた。捕まえてやる。捕まえて、穴を開けてやる。俺はお前の耳に穴を開けようと思っていたが、今方針を変えた。お前の目玉に穴を開けてやる。ブラックタイガーの何が一番俺に影響するか。それは目だったのだ。ブラックタイガーが俺を見るたびに、軽蔑の色が浮かぶあの目。じっとそらさずに、俺の心の中の蓋をしている部分をこじ開けようとするあの目。今日はいつもに増して俺を責めている。アイスピックのようなものが欲しい。それでお前の目玉を突き刺してやる。しかしアイスピックを持っておらず、やむを得ずボールペンで代用することにした。すると俺のベッドの上に構えていたブラックタイガーの目に変化が起きた。急に目玉が消失したのだ。灰色、縞模様の毛の塊に囲まれた二つの空洞。この中は真っ暗だ。次第に毛の塊は巨大化する。穴に吸い込まれる。俺が穴を開けるはずのところにもう穴が開いていて、俺を飲み込もうとしている。
 やめろ。
 そこで俺はまた幻視だと気付いた。だいたいブラックタイガーが俺の部屋にいるわけがない。
 「……」
 外は明るくなり始めていた。もう美代さんのところに行かなくては。
 昨日は行けなかった。今日も本当は外に出たくない。しかし今日は行かなくては。昨日行けなくてごめんなさい。これからは毎日来られなくなるかもしれません。伝えなくては。
 俺はマスクを装着した。これで今までの傷も、先ほど開けた傷も見えない。美代さんの前で弁当を食えなくなったが、仕方ない。
 美代さんに会いたいわけじゃない。きっと、無条件に優しくしてくれる誰かに会いたいだけだ。俺は不安定だ。二ヶ月間、ずっと不安定だった。この二ヶ月間、誰にも遠慮せず好き放題穴を開け続けたというのに、俺のバランスは崩れていくばかりだった。穴を開けることが好きだと思っていたのは間違いだったのか。あげくの果てにその変な嗜好のせいで犯罪者だ。終わった。でもこんな俺にも、美代さんは優しかった。それが嬉しかった。俺は誰かから優しくされることに餓えている。夕希を失って以降、誰からも優しさを貰わずに、誰とも関わらずに過ごしていたんだ。
 公園に着いた。ブラックタイガーはすでにベンチの近くの草むらにスタンバイしていた。しかし美代さんはいない。
 おかしいな。美代さんはいつも俺より先に公園に来ていたはずなのに。
 俺は一人、ベンチに腰かけた。コンビニに行くのも怖くて、今日は立ち寄っていない。手ぶらだ。携帯は携帯していない。数分間何もせず一人でベンチに座っていた。暇だ。寂しい。俺はブラックタイガーを見た。ブラックタイガーは冷ややかな視線を返した。そして草むらのむこうに消えていった。
 ……美代さん。どうして。今日は来ないのか。俺が昨日来なかったから、愛想を尽かしたのか。今日は訊きたいことがあったんだ。話したいことがあったんだ。
 解消されるはずだった俺の不安は、時間の経過とともに増大した。公園にある大きな時計が嫌でも目に入る。一時間待った。一日のように感じた。次第に俺は美代さんが心配になってきた。一人暮らし。あの年なら、いきなり家の中で倒れたっておかしくない。誰にも発見されず、苦しんでいるのではないか。それとも公園に来る途中、事故に遭ったのか。足元が覚束ない高齢者だ。可能性はあるのでは。
 俺は立ち上がった。黙って座っていられなくなった。
 「うち? 近いのよ。古本屋の隣で、スーパーも近くにあって便利なところよ」
 ちょっと前に美代さんが自宅の場所について言っていたことを思い出した。古本屋の隣。古本屋とは何処だ? 二ヶ月前にこの町に越してきた俺は何も知らない。
 美代さん!
 俺はいつも美代さんが去っていく方向、つまり俺の家とは逆方向に向かって前進した。美代さんの家を訪ねよう。スーパーの近くの古本屋の隣のアパートの二階。きっと見つかる。
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