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上野
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秋風が冷たい。しかし僕が勤める医学部棟は三年前に全面禁煙となってしまった。禁煙外来を設けている大学病院と併設していながらそこの医学の研究に従事するはずの研究棟に喫煙所があるなど言語道断、という理由だった。他の学部に先駆けた禁煙だったが、それを追って薬学部棟、看護学部棟など医療関係者を育てる学部はどんどん禁煙になった。そこで僕は今のところまだ喫煙所が外に設置してある工学部まで歩いて煙草を吸いにいくわけである。遠い。しかし一番近い灰皿がそこなのだ。おかげで時間を食い、仕事が終わらない。
「お疲れ様です、上野教授」
後ろから声をかけられた。このコースの常連となれば、病院の医事科の相川君か乳腺外科医局の菊菜講師だろうと思った。振り返ると前者であった。
「いやあ、寒くなってきたねぇ」
「ほんとですね」
相川君はまだ若いので上着もペラペラだが、五十七歳の僕はもう薄手のダウンを着ている。灰皿までは片道五分、病院からなら十分はかかるのではなかろうか。
「世知辛いねぇ。我々喫煙者は肩身が狭いよねぇ」
つい愚痴が出る。僕と同じような基礎医学教室の教授連中は臨床に出ることもあまりないし、以前は皆喫煙者だった。しかし途中から心筋梗塞になったり肺癌になったり胃癌になったりいきなり健康志向になったりして、続々と禁煙していった。デスクで煙草を吸っていた時代は終わり、チャンピックスが発売され、医学部棟が禁煙になり、煙草が値上がりし、禁煙に向けた環境はどんどん整備されていく。今や教授連中で煙草にしがみついているのは僕だけだった。
「僕も妻に、禁煙しないと離婚だと言われてしまいました」
「えっ」
いきなり相川君が重いことを言い出して僕は仰天した。それはまた心の狭い妻君だねぇと言いそうになったが、相川君の表情を見るにことは深刻そうだ。うちの妻はそんなことは言わないし、家も自由に喫煙できる。
「どうしたものかと悩んでますよハハハ」
「それは困ったねぇ。あ、先客だね」
灰皿には既に菊菜講師と、工学部の学生数名が群がっている。
「お疲れ様です」
菊菜講師が挨拶してきたので、僕も返した。いつの間にか教授職に慣れ、医者同士なら挨拶はされるもの、という傲慢が板についた。
「大変ですよ上野教授。工学部も禁煙になるという話です」
「ええっ」
聞き捨てならないことを菊菜講師が口にした。そうなんです、と学生たちが口を開く。
「来年一年のうちに大学敷地内は全て禁煙にするというのです」
「これも先生たちが喋ってるのを聞いたんですけどね」
ついに来たか。オリンピックのこともあり、値段が五百円を超えたこともあり、いずれはそのような手に出るとは思っていた。しかし自分の定年まではなんとか踏ん張って欲しかったのに、まさか来年度とは。
「いっそ反旗を翻し、デモしますか?」
菊菜講師が言った。もう少し若ければ、また時代が古ければ僕も考えた。しかし現代では、我々に勝ち目はないだろう。
「いやいや、菊菜講師。仮にも癌を治療する立場の君がそれでは示しがつかないよ」
「……ですよね」
皆神妙な面持ちで、秋風に吹かれた。灰が舞う。まさかこんな時代になるとは、思っても見なかった。
「お疲れ様です、上野教授」
後ろから声をかけられた。このコースの常連となれば、病院の医事科の相川君か乳腺外科医局の菊菜講師だろうと思った。振り返ると前者であった。
「いやあ、寒くなってきたねぇ」
「ほんとですね」
相川君はまだ若いので上着もペラペラだが、五十七歳の僕はもう薄手のダウンを着ている。灰皿までは片道五分、病院からなら十分はかかるのではなかろうか。
「世知辛いねぇ。我々喫煙者は肩身が狭いよねぇ」
つい愚痴が出る。僕と同じような基礎医学教室の教授連中は臨床に出ることもあまりないし、以前は皆喫煙者だった。しかし途中から心筋梗塞になったり肺癌になったり胃癌になったりいきなり健康志向になったりして、続々と禁煙していった。デスクで煙草を吸っていた時代は終わり、チャンピックスが発売され、医学部棟が禁煙になり、煙草が値上がりし、禁煙に向けた環境はどんどん整備されていく。今や教授連中で煙草にしがみついているのは僕だけだった。
「僕も妻に、禁煙しないと離婚だと言われてしまいました」
「えっ」
いきなり相川君が重いことを言い出して僕は仰天した。それはまた心の狭い妻君だねぇと言いそうになったが、相川君の表情を見るにことは深刻そうだ。うちの妻はそんなことは言わないし、家も自由に喫煙できる。
「どうしたものかと悩んでますよハハハ」
「それは困ったねぇ。あ、先客だね」
灰皿には既に菊菜講師と、工学部の学生数名が群がっている。
「お疲れ様です」
菊菜講師が挨拶してきたので、僕も返した。いつの間にか教授職に慣れ、医者同士なら挨拶はされるもの、という傲慢が板についた。
「大変ですよ上野教授。工学部も禁煙になるという話です」
「ええっ」
聞き捨てならないことを菊菜講師が口にした。そうなんです、と学生たちが口を開く。
「来年一年のうちに大学敷地内は全て禁煙にするというのです」
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