ニコチンを死守せよ

沢麻

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上野

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 ついに雪が降ってきた。僕は工学部に歩きながら、胸痛を覚えた。ひょっとして狭心症かな、と感じる。高血圧があり、内服しているが、それ以外は春の健康診断でも何も言われなかった。
 狭心症か……。絶対に禁煙しろと言われそうだ。循環器内科の津村教授は嫌煙家で、後輩ではあるが僕が喫煙者だというそれだけで冷たい態度を取ってくる男だった。あの手の連中はそもそも基礎医学を下に見てくるところがあって、まぁ確かに最前線医療には弱いが同じ研究者としての仲間意識が薄い。
 受診しなきゃ駄目かな……ととぼとぼ歩いていたら後ろから声をかけられた。
 「上野教授」
 隣の研究室の出口教授だ。
 「この間ごめんね、変わってもらって」
 「……あぁ」
 市民向けフォーラムの講演の話だった。本当は社会医学教授の出口教授が《高齢者と生活習慣病》という演題で舞台に立つ予定だったのに、社会医学教室でインフルエンザが大流行してしまい発表自体がなしになるところだったのを、友人の僕が引き受けた格好になった。生活習慣病くらいは知識があるのでまぁ発表は問題なかったのだが、長年の喫煙で動脈硬化が進み今狭心症の疑いのある自分が何を偉そうに……という気がしなかったわけでもない。
 「いやなに、困った時はお互い様ですよ。市民向けだしうまくいきましたよ。体はもういいの?」
 「おかげさまで。B型だったからか、熱もそうでもなかったんだよ。ところでどこへ?」
 「……あぁ、工学部」
 僕は煙草を吸うジェスチャーをした。すると出口教授は呆れた顔をするわけだ。
 「上野教授も禁煙したらいいよ。もう灰皿の掃除も清掃のおばちゃんじゃなくて喫煙学生がやってるっていうじゃない。敷地内禁煙も決まったし、撤去も時間の問題だろ」
 「……」
 出口教授と、学生だった頃居酒屋で煙草を吸っていたことがふいに思い出された。試験が終わると、よく飲みに行っていたなぁ。寂しい。
 「それじゃ、また」
 僕はとぼとぼと旅路を急ぐ。すると驚くべきことに、工学部に灰皿がないではないか。喫煙所だった場所に、携帯灰皿を片手に寒そうに喫煙している学生がいた。
 「上野教授。撤去されてしまいました」
 「……ああ、ついに」
 学生が僕に灰皿を貸してくれた。今度から携帯灰皿を持参しなくてはならないのか。
 「菊菜先生は加熱式にしたみたいで、離脱しましたよ」
 「そうか、菊菜講師が」
 最近見ないと思った。加熱式か。
 「僕も五百円になったし、買うのも厳しくなってきました。もう仕方ないので食費を削っていますよ」
 あぁ、時代の波が、僕たちの安らぎを奪っていく。
 急にまた胸が苦しくなった。学生が声をかけている。それはわかるが、これは、なんだ……
 
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