ニコチンを死守せよ

沢麻

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 加熱式ブースを設けたことで、売上は減った。夏夜ちゃんの会社の面々はまた顔を出してくれるようになったが、毎日というわけでもなく、無法地帯となっていた「しま」を心地よく思ってくれていた古い客たちの心証は悪化した。「なんだい、しまだけは俺たちの味方だと思っていたのに」と辛い言葉を投げかけてくる常連も居て、俺の心が痛まなかったといえば嘘になる。それと同時に、料理より煙草で選ばれていたんだという別の衝撃もあったりした。
 しかし加熱式というのは紙巻きと全く異なるので驚いた。煙がすぐ消えるので空間が晴れ渡る。においも全く異なるもので、カレーのにおいに紛れると全然わからない。更に色々なデザインがあるし、若者に流行するのはわかる気がする。ところが意外に多数なのが紙巻き派なのだ。新しいものに手を出すのは怖いと考える年代には、充電が必要だったりデジタルなデザインだったりする加熱式は受け入れられなかった。更に煙草を止める気などないし紙巻きを吸っていても外部からの圧力が何もないようなタイプも、わざわざ加熱式には変えない。そして吸い応え云々とか言って、結局出戻るのもいる。
 俺は職場でも家でも喫煙できるので、今までは止める気はなかった。しかし受動喫煙防止法が施行されたら、現状を貫くのは厳しいかもしれないと思い始めた。更に先程、アルバイトの子に辞めたいと言われた。時給は平均的だし、うまくやってくれていた子だったので残念だったが、妊娠したと言われた。
 「あ、つわりがひどいのかい?」
 カレーのにおいを第一に思いついて俺がこう言うと、
 「いえ、たばこが」
 と言われた。産婦人科で、煙草の害について詳しく聞いたようだった。自分が癌になる、心筋梗塞になる、と言われても健康な人間なら自分には関係のない話に聞こえて具体的に禁煙を考える人は少ないように思う。しかし腹の子に影響が出るとなると、違うらしい。あと十歳若かったら、そんなん関係ないよ、煙草吸ってたって元気な子が生まれるよとか無責任なことを言ったかもしれない。でもなんだか最近は、そんなことは言ってはいけない空気を感じる。
 もう店を閉めようとしていたら、コーヒーだけ、と客が入ってきた。よく見る顔。ここらへんのサラリーマンだと思った。やつれて、泣きそうな顔をしている。
 「お客さんどうしたの」
 混んでいると客と会話が難しいが、閉店間際なら余裕があった。もうアルバイトもみんな帰って、俺しかいない。
 「ひどい顔してるよ」
 「まじっすか」
 客はスパスパと煙草を吸いながら、顔を上げた。ああ、前はよくランチに来てくれていた人だ、と思った。
 「実は禁煙のビルのトイレで加熱式吸ってるのがバレて、今六ヶ月の減給中なんですよ」 
 「ええ! そりゃひどい。減給ていくらの?」
 「基本給半分です」
 「ほんとかい。それ労基署に言ったらなんとかしてくれないかね?」
 「今の総額は最低賃金のギリギリラインみたいですからなかなか……それに、自分が悪いのに労基署呼んだらますます白い目で見られて、より一層働きづらくなっちゃいますよ」
 それもそうか、と同意する。また煙草がらみか、とも思う。
 「加熱式でもだめなんだね」
 「そうなんです。だめなら加熱式の意味もなくて。同僚が昼休みしまに行かないように見張ってるし、一日中我慢してるんです。もう死にそうです」
 「やめちゃえばいいじゃない」
 主語は言わなかった。煙草を、ではなく会社を、という意味で言ったが、相手も同じように受け取っていた。それほどまでに、煙草はもう日常なのだ。こんなに喫煙者を作っておいて、どうして日本はこんな風になってしまったのだろう。俺は目の前の客を見て、悲しくなった。
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