鄧禹

橘誠治

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第一章 北州編

急転

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 このことに倪宏もすぐに気づいた。自軍の突出部ばかりを攻撃してくるうっとうしさに強烈な苛立ちを覚えた倪宏だが、そのような真似ができる敵兵の有能さ、恐ろしさに我に返る。そのような優秀な騎馬隊とその指揮官である。無策無謀はありえず必ず意図があると思えば、たどり着く結論は劉秀と同じだった。
「こざかしい藪蚊やぶかめ」
 冷静さを取り戻したとはいえ敵騎馬隊のうっとうしさに変わりはない。わずかに残った苛立ちとともに短く悪罵を漏らすと、その藪蚊が最も嫌がる命令を、倪宏は各将へ発した。
「全軍、合図とともに突撃せよ。全面攻撃である。劉秀へとどめを刺せ」


 この短い時間、劉秀は激しい焦慮に駆られていた。景丹の献身と信頼に報いることができないのだ。
「劉奉さえいなければ…」
 もともと準備不足でのぞんだ戦いであり、使える策も少ない。それでも劉秀軍絶対の有利は突騎兵の存在である。北州随一の騎馬隊を活かさない手はないのだが、今回は前述したように左に巨大な湖があるため、こちらは戦場としてまったく使えない。
 では右が使えるかといえばそうもいかない。こちらには倪宏と連合でやってきた劉奉の軍がいるのだ。


 今、劉秀と実際に戦っているのは倪宏の軍だけである。倪宏軍だけなら数の上では劉秀軍が有利なのだが、それでもなお劉秀が押されているのが倪宏を猛将と呼ぶ所以ゆえんだった。
 そして劉奉軍は倪宏軍の左翼に位置したまま動かずにいる。これは劉奉の意志ではなく倪宏の命令だった。
「なまじ連携を取ろうとしても返って混乱するだけだろう。おぬしは動かずにいて、我らが危機に陥れば援けに、劉秀が崩れれば追撃に移ってくれればよい」
 連合軍の大将である倪宏は表現に一応の気遣いをみせてはいたが「足手まといゆえそこにおれ」という本音が透けて聞こえる。それは劉奉にとって屈辱ではあるが、厳然たる事実でもあるため不快を押し殺してうなずく以外ない。


 それにもう一つ、劉奉が左翼で動かずにいる正当な理由もあった。劉秀の突騎兵の動きを牽制するためである。
 この戦場で突騎兵が動ける方向は劉秀軍から見て前か右しかない。それも前方に距離があれば突騎兵も機動力を活かせるが、いかんせん相手は猛進を得意とする倪宏だった。突騎兵が突出するための距離を自らの前進で潰してしまう。仮に距離を潰される前に突騎兵が突撃をかけても、強力な倪宏の兵は簡単に崩されはしない。現に彼らは奇襲というべき銚期の攻撃を受け切っている。
 いま倪宏が景丹の攻撃を受けているのは、わずかな距離、わずかな空間を使われているためであるが、その隙間は小さなもので、景丹の小部隊なればこそ自在に動ける広さしかない。そのため倪宏軍の実質的な被害は微々たるもので、ゆえに倪宏は彼らを「藪蚊」と称しているのだ。
 そしてそのわずかな空間は、すぐにも潰されかねない。


 では右はどうか。本来ならこちらを攻めるのは有効なのだ。右へ大きく旋回して敵側面を撃つもよし、後背を襲うもよし。さらに倪宏は猛将ゆえ前方へは強力だが側背を突かれればもろく、幾重にも効果がある。そして倪宏も自らの弱点はよく知っていた。それゆえの劉奉軍なのだ。
 突騎兵が右から劉奉軍左方へ攻撃を仕掛けても、劉奉が迎え撃てば倪宏軍まで届かない。後背へまわろうとしてもそれも劉奉軍が迎え撃つ。
 突騎兵ほどではないが劉奉軍にも騎馬隊は存在する。彼らでも突騎兵の進撃を抑えるくらいはできるだろう。その間に歩兵や弓兵で包囲し殲滅せんめつする。
 それがわかるだけに無益と理解しつつも劉秀は「劉奉さえいなければ」と奥歯を噛みしめながらうめくしかないのだ。
 しかしそのような無益なことを考えている時間すら惜しいのが今この瞬間である。


 劉秀の焦慮は思考を悪循環に陥らせていた。各将も自分たちの部隊を率い、それぞれの部署で倪宏の圧力をこらえるのに精一杯で、劉秀に献言する余裕もない。劉秀はこの苦境を脱する策を独力で考えるしかなかった。
「ここに仲華がいてくれれば…」
 さらなる時間の浪費を自覚しながらも、劉秀はまたしても無益なことを考えてしまう。確かに鄧禹がいれば劉秀の望む策をひねりだしてくれるかもしれない。鄧禹の思考はどちらかといえば政略・戦略の類を得意とするが、このような場合でも充分に役に立つ万能さも持っているのだ。


 そのとき、倪宏の軍に銅鑼の音が響き劉秀をぎくりとさせる。その銅鑼がどのような命令を意味するのか劉秀にはわかりようがなかったが、この状況で倪宏が兵に与える命は一つしかありえない。
 全面攻撃である。事実、兵はそのように自らを配置し直し始めている。
「すまぬ、孫卿」
 敵軍の前面で馬群を駆け巡らせ奮闘する景丹の献身が無に帰そうとしている。劉秀は景丹への詫びを口の中で押し出すことしかできなかった。


「…なんだ」
 だが劉秀は倪宏軍の動きがにわかにおかしくなってきたことに気づいた。全面攻勢へ出るための編成に乱れが生じているのだ。それは兵自身にとっても意外なようで、彼らの動きには困惑と不可解さが噴出している。
明公との、右を!」
 絶望感に視界が狭くなっていた劉秀の耳に驚愕をにじませた側近の報告が届く。その声に軽く我に返った劉秀は右を――倪宏軍の左を見て唖然とした。
「なぜ劉奉が倪宏を襲っている!」
 劉秀が唖然とするのも無理はなかった。倪宏の左翼に予備兵力として控えていた劉奉軍が、友軍めがけて突進しているのだ。劉奉が倪宏を裏切ったのだろうか。


 しかし劉秀はいぶかしさに目を細める。劉奉軍の動きも不自然なことに気づいたのだ。
 劉秀は彼らの動きを反射的に「襲っている」と口にしたが、感覚としては「雪崩れ込んでいる」に近い。事実、まったく秩序なく、自らの意思もなく、見方によっては倪宏軍が見えていないかのように兵が走り、ぶつかっているのだ。思わぬ方向から押し込まれ、のしかかられ、大いに戸惑う倪宏軍も右方へ崩れ始めている。まったく警戒していない方向から突然巨大な圧力を受けたのだから無理もない。
 それら信じられない光景に呆然としながらも、劉秀は劉奉軍の動きがとある軍行動――と呼べるかは微妙だが――と似ていることに、ようやく思い至った。
「……潰走しているのか!」
 先入観をのぞいて見れば、それが最もふさわしい光景だった。劉奉軍の兵は命からがら逃げまどっているのだ。
 その結論に劉秀は再度唖然としたが、不意に我に返る。
「全軍再編! 倪宏と劉奉へ突っ込むぞ。急げ!」
 後退していた自らの軍へ、今度は攻撃のための命令を発する。劉奉軍の醜態の原因はわからないが、これほどの好機を逃がしてはならない。先ほどまでと違う焦慮に駆られながら劉秀は兵の再編を待ち、短時間でそれを完了したむね報告を受けると、声の限りに叫んだ。
「突撃!」
 もつれあって倒れ込もうとしている倪・劉連合軍へ、劉秀軍は喚声をあげながら猛々たけだけしく突進していった。




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