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第一章 北州編
突崩
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劉奉軍全体へ目をやると、兵は混乱はしていたが崩壊には至っていない。それゆえ蓋延は焦った。このままでは劉奉の兵たちは平静を取り戻してしまうかもしれない。安全圏まで達した劉奉が健在を示し的確な指示を出せば、その確率はさらに上がってしまう。そうなれば自分たちが敵中で鏖殺されるのはもちろん、劉秀が倪宏に殺されてしまう恐れさえあった。この点が銅馬へ突っ込んで同様の危険を味わったときと決定的に違う恐怖である。
だがその恐れが蓋延に「窮すれば通ず」の閃きを与えた。
「兵を五つに分けよ。それぞれに劉奉軍内部を駆けさせ、こう叫ばせろ。『劉奉は討ち取られた。味方は負けた。西へ走れ。倪宏へ援けを求めるのだ』とな。急げ!」
命令とともに自らも一隊を率いると、蓋延は剣を振り回しながら劉奉兵へ向かって怒鳴り始めた。
「劉奉は我らが討ち取った! おぬしらの負けだ。さっさと逃げねば殺されるぞ。倪宏へ向かって走れ。倪宏だけがおぬしらを援けてくれるぞ。急げ!」
蓋延は混乱を最大限活かすことに賭けたのだ。兵たちは戦場で起こっていることのすべてを知っているわけではない。今は劉奉が逃げ一時的とはいえ指揮系統は機能していない。この隙を突いて虚偽の流言を流し、劉奉軍を潰走させてしまおうというのである。しかも逃げる方向まで指定して。
蓋延の意図を理解し五つに分かれた突騎兵は、敵を斬り伏せながらそれ以上の真摯さで大声を張り上げた。
「劉奉は死んだ! 走れ! 走れ! 右へ走れ! 倪宏の兵と合流するのだ!」
「敵の大部隊も襲ってくるぞ! 立ち止まっていては殺される。急げ!」
中には大多数の劉奉兵が南を向いて布陣していることを見て取り、西=右と敵兵にわかりやすくなるよう脚色して言い直す者や、さらなる敵の援軍がやってくると嘘を交えて流布する者もいた。
が、すぐには崩れない。一つには蓋延たちの突入が速すぎたため、混乱が全軍に波及していないことも一因である。劉奉に対応の隙を与えないよう敢行した、蓋延全力の突撃がここで裏目に出てしまっていた。またそもそも劉奉軍の総数に比して、蓋延突騎兵の数が少なすぎる。攻撃力は圧倒的だが、このような煽動作戦では効果が薄くなるのは否めない。
しかしそれでも混乱は広がり続けている。
五つにばらけた突騎兵は敵を斬るより煽動に必死になっていた。敵中を駆ける部隊、外縁部を走る部隊、敵中奥深くへ突入してゆく部隊。それぞれがそれぞれの意図をもって、劉奉兵の恐怖を煽り、恐慌を起こさせようとする。
これは決死の行為であった。もともと数の少ない彼らがさらに五つに分かれたのだから数ではすでにまったく勝負にならない。劉奉兵がこのまま壊乱せず平静さを取り戻してしまえば、部隊ごとに包囲され、あっという間に殲滅されてしまうだろう。
そしてそれは一時避難した劉奉が落ち着き、あらためて全軍に指示を出せば必ず現実化してしまう。
もしこの煽動が空振りに終われば、蓋延たちこそが全滅し、劉秀の危機もさらに増大してしまうのだ。蓋延はそのことを理解していた。だからこそ賭けなのである。
その蓋延は部下を率い、敵中深くへ突進してゆく。
可能な限り多数の兵に恐怖を与えるため。そしてできるなら再度劉奉を見つけ出し、真実討ち取ってしまうため。
混乱は広がっている。敵中を駆けながらもそれはわかる。敵兵に恐怖も蔓延してきている。それもわかる。
だがどうしても最後が崩れない。何かのきっかけで一人が走り出せば、それが堤を破る蟻の一穴になるであろうに、その一穴がなかなか開かないのだ。
「逃げよ! 倪宏の方へ逃げよ!」
蓋延の焦りもさすがに限界に近づいてくる。と、視界の端に一つの旗が上がり蓋延は総毛立った。
それは「劉」の旗で劉奉の健在をあらわすものだった。取り逃がした敵将の居場所がわかったのはありがたい。が、距離がある。劉奉はすぐさま「突入してきた騎馬隊を包囲殲滅せよ」と新たな命令を兵へ発することだろう。いや、すでに発しているかもしれない。
いかな蓋延でも劉奉を討つにはもう間に合わない。
それを理解した刹那、蓋延の中で何かが切れた。
「貴様らあ! 西へ走れと言っているのがわからんかあ! 殺されたいかあっ!」
蓋延は我知らず両腕を振り上げ、咆哮した。その怒号は質量すらともなって、至近の劉奉兵たちを打つ。反射的に目を閉じ、ありえない圧力に耐えた彼らが目を開くと、そこにいたのは馬に乗る悪鬼だった。
事実、八尺(約184cm)を越える蓋延が、全身から鬼気を放って吠え猛っているのである。信心深く迷信深い古代人の彼らに、その姿は本物の悪鬼と錯覚させるほどだった。
その悪鬼が足を前に踏み出した。踏み出されたのは馬の脚だが、劉奉兵にその認識はない。その巨体は馬と人間が一体化した化物にしか見えず、彼らに恐怖と同等以上の畏怖を与えた。中には腰を抜かし、へたり込む兵もいる。
「西へ走れえ!」
悪鬼が怒号とともに突進してきた。全身の鬼気は巨体を倍加させ、すでに飽和状態だった兵の恐怖と畏怖をはじけさせた。
「ひいいいいっ!」
蓋延の眼前にいた十数人が彼に背を向け走りだした。悪鬼の怒号と鬼気に押されるまま、西へ。
それが一穴となった。十数人が数十人を押し、数十人が数百人を押し、数百人が数千人を押し、彼らは一散に走り始める。西へ。
劉奉軍はついに壊乱した。
狂乱のまま左後方から自軍へ雪崩れ込んでくる劉奉兵に、最初、倪宏は劉奉が裏切り、劉秀へ寝返ったのかと思った。だがそれにしては劉奉兵の動きにまったく統一性がない。そして兵の必死の表情を見てこれが潰走だと気づくと怒声を放った。
「劉奉はなにをしている。なにを考えておるのか!」
倪宏は目の前にいるのが劉秀の全軍だと思っているため、劉奉が敵襲を受けたとは考えておらず、それゆえ劉奉軍の「潰走」の理由がわからない。ではこの潰走は劉奉の命令なのか。しかしこれが劉秀へ寝返るための劉奉の意思だとしても、このような方法を取る必要がどこにある。これでは自らも壊滅してしまうではないか。
しかし今の倪宏にそのようなことを考えている余裕はなかった。まったくの無防備だった左後方へ大量の兵による突撃を受けたのだ。統一されていようがいまいが関係なくその圧力に倪宏軍は、幅寄せされたように進路を右へ強引に変えられてしまう。倪宏軍はもともと前方への攻撃力は圧倒的だが、後背からの攻撃にはいちじるしくもろい。
彼らの指揮系統は一気に崩壊した。
だがその恐れが蓋延に「窮すれば通ず」の閃きを与えた。
「兵を五つに分けよ。それぞれに劉奉軍内部を駆けさせ、こう叫ばせろ。『劉奉は討ち取られた。味方は負けた。西へ走れ。倪宏へ援けを求めるのだ』とな。急げ!」
命令とともに自らも一隊を率いると、蓋延は剣を振り回しながら劉奉兵へ向かって怒鳴り始めた。
「劉奉は我らが討ち取った! おぬしらの負けだ。さっさと逃げねば殺されるぞ。倪宏へ向かって走れ。倪宏だけがおぬしらを援けてくれるぞ。急げ!」
蓋延は混乱を最大限活かすことに賭けたのだ。兵たちは戦場で起こっていることのすべてを知っているわけではない。今は劉奉が逃げ一時的とはいえ指揮系統は機能していない。この隙を突いて虚偽の流言を流し、劉奉軍を潰走させてしまおうというのである。しかも逃げる方向まで指定して。
蓋延の意図を理解し五つに分かれた突騎兵は、敵を斬り伏せながらそれ以上の真摯さで大声を張り上げた。
「劉奉は死んだ! 走れ! 走れ! 右へ走れ! 倪宏の兵と合流するのだ!」
「敵の大部隊も襲ってくるぞ! 立ち止まっていては殺される。急げ!」
中には大多数の劉奉兵が南を向いて布陣していることを見て取り、西=右と敵兵にわかりやすくなるよう脚色して言い直す者や、さらなる敵の援軍がやってくると嘘を交えて流布する者もいた。
が、すぐには崩れない。一つには蓋延たちの突入が速すぎたため、混乱が全軍に波及していないことも一因である。劉奉に対応の隙を与えないよう敢行した、蓋延全力の突撃がここで裏目に出てしまっていた。またそもそも劉奉軍の総数に比して、蓋延突騎兵の数が少なすぎる。攻撃力は圧倒的だが、このような煽動作戦では効果が薄くなるのは否めない。
しかしそれでも混乱は広がり続けている。
五つにばらけた突騎兵は敵を斬るより煽動に必死になっていた。敵中を駆ける部隊、外縁部を走る部隊、敵中奥深くへ突入してゆく部隊。それぞれがそれぞれの意図をもって、劉奉兵の恐怖を煽り、恐慌を起こさせようとする。
これは決死の行為であった。もともと数の少ない彼らがさらに五つに分かれたのだから数ではすでにまったく勝負にならない。劉奉兵がこのまま壊乱せず平静さを取り戻してしまえば、部隊ごとに包囲され、あっという間に殲滅されてしまうだろう。
そしてそれは一時避難した劉奉が落ち着き、あらためて全軍に指示を出せば必ず現実化してしまう。
もしこの煽動が空振りに終われば、蓋延たちこそが全滅し、劉秀の危機もさらに増大してしまうのだ。蓋延はそのことを理解していた。だからこそ賭けなのである。
その蓋延は部下を率い、敵中深くへ突進してゆく。
可能な限り多数の兵に恐怖を与えるため。そしてできるなら再度劉奉を見つけ出し、真実討ち取ってしまうため。
混乱は広がっている。敵中を駆けながらもそれはわかる。敵兵に恐怖も蔓延してきている。それもわかる。
だがどうしても最後が崩れない。何かのきっかけで一人が走り出せば、それが堤を破る蟻の一穴になるであろうに、その一穴がなかなか開かないのだ。
「逃げよ! 倪宏の方へ逃げよ!」
蓋延の焦りもさすがに限界に近づいてくる。と、視界の端に一つの旗が上がり蓋延は総毛立った。
それは「劉」の旗で劉奉の健在をあらわすものだった。取り逃がした敵将の居場所がわかったのはありがたい。が、距離がある。劉奉はすぐさま「突入してきた騎馬隊を包囲殲滅せよ」と新たな命令を兵へ発することだろう。いや、すでに発しているかもしれない。
いかな蓋延でも劉奉を討つにはもう間に合わない。
それを理解した刹那、蓋延の中で何かが切れた。
「貴様らあ! 西へ走れと言っているのがわからんかあ! 殺されたいかあっ!」
蓋延は我知らず両腕を振り上げ、咆哮した。その怒号は質量すらともなって、至近の劉奉兵たちを打つ。反射的に目を閉じ、ありえない圧力に耐えた彼らが目を開くと、そこにいたのは馬に乗る悪鬼だった。
事実、八尺(約184cm)を越える蓋延が、全身から鬼気を放って吠え猛っているのである。信心深く迷信深い古代人の彼らに、その姿は本物の悪鬼と錯覚させるほどだった。
その悪鬼が足を前に踏み出した。踏み出されたのは馬の脚だが、劉奉兵にその認識はない。その巨体は馬と人間が一体化した化物にしか見えず、彼らに恐怖と同等以上の畏怖を与えた。中には腰を抜かし、へたり込む兵もいる。
「西へ走れえ!」
悪鬼が怒号とともに突進してきた。全身の鬼気は巨体を倍加させ、すでに飽和状態だった兵の恐怖と畏怖をはじけさせた。
「ひいいいいっ!」
蓋延の眼前にいた十数人が彼に背を向け走りだした。悪鬼の怒号と鬼気に押されるまま、西へ。
それが一穴となった。十数人が数十人を押し、数十人が数百人を押し、数百人が数千人を押し、彼らは一散に走り始める。西へ。
劉奉軍はついに壊乱した。
狂乱のまま左後方から自軍へ雪崩れ込んでくる劉奉兵に、最初、倪宏は劉奉が裏切り、劉秀へ寝返ったのかと思った。だがそれにしては劉奉兵の動きにまったく統一性がない。そして兵の必死の表情を見てこれが潰走だと気づくと怒声を放った。
「劉奉はなにをしている。なにを考えておるのか!」
倪宏は目の前にいるのが劉秀の全軍だと思っているため、劉奉が敵襲を受けたとは考えておらず、それゆえ劉奉軍の「潰走」の理由がわからない。ではこの潰走は劉奉の命令なのか。しかしこれが劉秀へ寝返るための劉奉の意思だとしても、このような方法を取る必要がどこにある。これでは自らも壊滅してしまうではないか。
しかし今の倪宏にそのようなことを考えている余裕はなかった。まったくの無防備だった左後方へ大量の兵による突撃を受けたのだ。統一されていようがいまいが関係なくその圧力に倪宏軍は、幅寄せされたように進路を右へ強引に変えられてしまう。倪宏軍はもともと前方への攻撃力は圧倒的だが、後背からの攻撃にはいちじるしくもろい。
彼らの指揮系統は一気に崩壊した。
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