翻る社旗の下で

相良武有

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第一章 悔恨

第3話 嶋和彦と中山麗子は同期入社の仲間だった

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 嶋和彦、中山麗子、佐々木良治の三人は同期入社の仲間だった。
新人研修の教育実習が三人とも同じ小グループだったので、山崎や沢木ら他の三人のメンバーと併せて、彼らは急速に仲良くなった。特に嶋と麗子は住居が同じ私鉄沿線の二駅違いだったこともあって、朝の通勤時に顔を合わせたり、夕方一緒に帰ったりして親密の度合いを高めて行った。
 
 いつものように仲間達と酒を飲み食事を愉しみ議論を戦わせて、おまけに二次会のスナックでカラオケまで唄って帰りが深夜に及んだ週末に、麗子が最寄りの駅でホームに降り立つと嶋も一緒に電車を降りて来た。
「どうしたの?」
訝しげに問いかけた麗子に嶋が答えた。
「送って行ってやるよ」
「遅いからいいわよ」
「遅いから送って行くんだよ。こんな真夜中に女一人じゃ物騒だろうが、な」
麗子ははにかむ笑顔を上目遣いに嶋に向けた。
「ありがとう」
麗子は嬉しかった。身体の中で弾けるものが有った。嶋の首に跳び付きたい衝動を辛うじて自制した。
二人は明日のデートを約束して麗子の自宅前で別れた。門扉の前で振り向いた麗子にタクシーの中から嶋が軽く手を挙げて応えた。二人の心が同期生の垣根を越えた一瞬だった。

 翌日、二人はジャズコンサートに出かけた。予約席ではなく二階前列の自由席だったが、ジャズは心にずしりと響き、二人は我を忘れるひと時を過ごした。
開演のアナウンスと同時に演奏が始まり、二人はいきなり何か強烈な力で全身を激しく揺さぶられたような気がした。エネルギー満開の炸裂するフリージャズバンドの演奏だった。
緞帳が上がった時には、既に、バンドリーダーが全身全霊でサックスを吹き捲り、メロディーやハーモニーよりも音そのものが空中に放射されていた。観客は全身でそれを受け止めているようだった。
強烈な三曲が終わると、奇妙なユーモア溢れるトークが始まり、観客が爆笑した。音楽と言葉による絶妙の緩急だった。
時にサックスを、時にユーモアを武器にして、バンドリーダーはまるで祈祷師の如く、集まった観客の自我を吹き飛ばそうとしているように見えた。会場に満杯の観客を前に演奏して、ミュージシャンは何時も以上に感情が高ぶったに違いなかった。
トークの後、再び演奏が始まるとそれまで爆笑していた客達が一斉に立ち上がって踊り始めた。時折、皆で掛け声を合唱したりする。スーツ姿の男性だけでなく中高年の女性も一緒になって歌い踊っている。一人一人の動きは微妙に違っていたが、それでいて全員が綺麗に揃う時もあった。観客は誰もが貌を崩して我を忘れていた。
嶋は一瞬、虚をつかれた。これほど瞬時に人が我を忘れる姿を始めて見た気がした。乗る前の前兆などまるで無かった。
終演後に入った近くのレストランで二人は語り合った。
「やっぱりジャズは素晴らしいね。リズムもテンポも心の奥底に深く響くんだな、それでいて凄く恰好良いんだよ」
「そうね。鮮烈なリズムが心と身体を直撃して電撃が走り、痺れちゃうのね」
「今日の演奏でもそうだったが、ビッグ・バンドスタイルによるスウィング・ジャズではソロ演奏が大変重要なんだよな、演奏者の力量と才覚に大きく左右されるところがあるからね」
「昔、ルイ・アームストロングがトランペット奏者でありながら自ら歌も唄って、ジャズとヴォーカルとを融合させたように、ジャズは何よりも自由に表現することが出来る。私はその自由な表現形式にジャンルを超えた現代音楽芸術の源流を見る気がしているの」
「ジャズは基本的には金管楽器と木管楽器とドラムスの組み合わせだろう。それにスピリチュアル、ブルース、ラグタイムの要素を含み、ブルー・ノート、シンコペーション、スウィング、バラード、コール&レスポンス、インプロヴィゼーション、ポリリズム等を演奏の中に組み込む。だから演奏者の力量に大きく左右されるし、何よりも自由に表現できるんだと思うよ」
二人のジャズ談義は尽きることを知らなかった。何時の間にか夜は深更に及んでいた。
 
 それから二人はよく逢うようになった。
休日に映画に出かけたり食事をしたりして交際を深めた。
植物公園の自由広場で待ち合わせてレジャーシートでのんびりしたり、晴れた日には、市営体育館の上の丘に登って周辺を一望したりもした。また、ゆっくり語らう時には、洋風や和風の庭園が造営されているグリーンギャラリーの芝生の上で二人だけの時間を過ごした。二人は誰も行かない隣県で落ち合ったりして、同期の仲間達や会社の人間には出来る限り知られないように最大限の気配りをした。仕事も出来ない新人が色恋だけは一人前か、と言われるのが眼に見えていた。そういう秘めた忍び逢いが二人の思いをより一途なものにした。
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