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第一章 悔恨
第5話 新人たちに夫々の配属先が言い渡された
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新人研修もあと半月で終わるという九月半ばに、新人たちは夫々の配属先を言い渡された。
辞令に書かれていた配属先は、嶋が海外事業本部、佐々木が人事部、そして、麗子が経営企画本部だった。実習グループの他の三人は営業本部勤務となって、当面は皆が一緒に本社に居られることを喜び合った。
然し、共に本社勤務になったとは言え、嶋と麗子は執務するビルのフロアは違っていたし、互いの仕事に直接の関係は無かったので、顔を合わせる機会は殆ど無くなっていった。偶に社員食堂でちらっと互いを見かける程度だった。新人の二人には習熟しなければならない仕事が次々と割り振られたし、居残り残業を強いられることもしばしば有った。二人は深夜に自宅からメールを交換し合ったり携帯で話したりするだけで、逢うのは休日に限られることになってしまった。毎日顔を合わすことが出来ず、電話とメールだけのやり取りで一週間を過ごす二人にとって、物理的にも時間的にも少し距離が離れた分、互いを想う愛情は深化し昇華していった。
正月休みに嶋が麗子を白馬山麓へスキーに連れ出した。
白銀のゲレンデを輝く朝日を浴びて二人は風を切って滑走し、飛ぶ小雪と舞い立つ霧が二人を包んだ。
吹雪く時には、二人は山小屋で、肩を寄せ合い、手を繋いでうとうとと居眠った。ゆらゆらと湯気が揺れる暖かい風呂に入って存分に手足を伸ばす至福の夢の中で二人はまどろんだ。
新人の一年はあっという間に過ぎた。また春が巡って来て今年も百余名の新人が入って来た。嶋も麗子も初々しくて清々しい新人たちを目の当たりにして、一年前の自分とその頃抱いていた志を胸に甦らせた。
四月初めの温かい春の一日、二人は連れだってサイクリングに出かけた。年明けから年度末にかけて仕事は多忙を極めたので久し振りのゆったりしたデートだった。
二人はサイクル・ターミナルでレンタサイクルを借りた。嶋はマウンテンバイクのスタンダードクラスを、麗子は一般自転車のハイクラスをレンタルした。
「そんな怖い自転車、敵わんわよ」
嶋のマウンテンバイクを見て麗子は大仰にふざけた。久方振りのはしゃぎだった。
二人は街中を一気に東へ突っ走って大川沿いの街道へ抜け、犬の散歩をしている人やベンチに座って休んでいる人達を見やりながら、綺麗に舗装整備されたサイクルロードをゆっくりと走った。
「うわッ、きれい!」
天蓋のように道の両側から覆い被さる桜並木や前方にも左右にも広がる山々の霞たなびく薄緑の美景を見やって麗子は感嘆の声を上げた。
「見て、見て!ほら、まるでオブジェのようよ」
麗子が指差した川面には鷺が一羽、じっと動かずに立っていた。
二人は川岸に降りて缶コーヒーを口にし、暫しの休憩を取った。嶋は大きく背伸びをして、思い切り空気を吸い込んだ。まるで生命が洗われるようだった。
五分ほどペダルを踏んで北へ進むと急な上り坂になって来た。
マウンテンバイクを漕いでいる嶋にとっては格別きつい坂道でもなかったが、身体を鍛えることの殆ど無い日常生活の麗子にとっては、この坂道は少し堪えるようであった。一キロ余り続く坂道をフーフー言いながら麗子は頑張って嶋に従いて走った。
右手前方に小さな社が見えてきた時、麗子は、わあッ!やっと着いたわ、と思わず歓声を上げて喜んだ。
「一寸、一服しようね」
「うん、そうしよう」
境内は静寂だった。物音一つ聞こえない。誰一人居ない。まるで時間が止っているようである。二人は暫し無言で山門を潜り、石段に腰を降ろして自然の厳粛さに浸った。
少し寒さを覚えた二人は、再び自転車に跨って有名な国際会議場の勇姿を左手に見ながら市が造営した大きな公園へ入って行った。
公園の内は大勢の人で混み合っていた。今がシーズンの桜の花を見物する人、遠くの山々と国際会議場を借景として楽しめる遊歩道を散策する人、双眼鏡を覗いて野鳥を観察する人、自然林や芝生の庭園で寛ぐ人等々、春のうららかな陽光の下で、それぞれが思い思いに憩っていた。二人も自転車を降りてゆっくりと池の周りを歩いた。池では何組もの若いカップルが自分達だけの夫々の世界にひたってボート遊びを楽しんでいた。
二人は自転車を止めて遊歩道の手すりに手を置き、眼前に広がる素晴しい絶景を見やって暫し佇んだ。
「あなたは海外事業部に配属されたけど、将来はどうするか、何か考えているの?」
突然に麗子が嶋に訊いてきた。
「うん。俺は、四、五年は本社でみっちり実力をつけて実績を積み重ね、その後はニューヨーク、ロンドン、シドニーなどの海外で勤務したいと思っている。学生時代に英会話を習得してこの会社を就職先に選んだのもその為だったし、グローバリーゼ―ションの拡がりで世界の垣根が低くなった今の時代には仕事は何と言っても海外だからな」
嶋は改めて闘志を胸に甦らせたようだった
「其方はどうなんだ?」
麗子の卒業したのは経営学部だった。これからの仕事に十分に活かせる素地は既に持ち合わせていることを素直に喜んでいた。
「わたしは経営企画にも営業企画にも長けてみせるわ。公認会計士か経営管理士の資格を取って専門のプロになろうと思っている。今の仕事を足掛かりにして将来は独立したいと考えているの。企業の決算の適否を指導するだけでなく、経営管理の相談にも乗るコンサルタントになりたいのよ」
麗子は気持ちを高ぶらせた。ただ、嶋が将来は海外に赴くだろうことについては、胸中に複雑な思いが拡がっていた。一緒に付いて行けるに越したことはないが、自分の仕事がどうなるのかの迷いが有った。今の麗子の頭の中には仕事へのモチベーションを高めることが大半を占めていた。
麗子の話を聞いた嶋は、海外へ赴任する時には君を一緒に伴って行きたい、と言おうとした言葉を飲み込んだ。代わりに口を吐いて出た言葉は極めて月並みな物言いだった。
「へえ~、そんな具体的な事をもう考えているんだ。大したもんだな。そうか、しっかり頑張れよ」
「うん。ありがとう」
それから二人は人で混雑する遊歩道を避けて、「子供の楽園」を走り抜け「いこいの森」へ出た。沿道は広々とした芝生地とマツとが絶妙の景観を呈していたし、森には枝垂れ桜が白や紅の見事な花を咲かせていた。芝地にはタンポポが群生し、空にはオオタカが餌を求めて飛翔していたし、アオバズクの繁殖も見られた。
「うわぁッ、良い匂い!」
麗子が歓声を上げて眺めた桃林からは甘酸っぱい仄かな香りが漂って来る。
「この桃林には百本の桃が植えられていて、市内でも屈指の場所なのよ。梅の後の三月中旬から四月中頃までが花の見頃なの、良い時期に来たわね」
桃林の中には花見に訪れた人達がゆっくり観賞出来るように、散策路やベンチが整備されていた。
更に、地下から汲み上げられた井戸水が深さ数センチの浅い人工の小川となって木陰を流れ、水辺には様々な植物が植えられて、周辺のサトザクラは今を盛りと咲き誇っていた。夏には母子で水に触れ合う子供達の人気スポットになると言うことであった。
二人は街中とは思えない広大な緑の空間に浸り、自然や歴史に触れあって心と身体を洗われた。
辞令に書かれていた配属先は、嶋が海外事業本部、佐々木が人事部、そして、麗子が経営企画本部だった。実習グループの他の三人は営業本部勤務となって、当面は皆が一緒に本社に居られることを喜び合った。
然し、共に本社勤務になったとは言え、嶋と麗子は執務するビルのフロアは違っていたし、互いの仕事に直接の関係は無かったので、顔を合わせる機会は殆ど無くなっていった。偶に社員食堂でちらっと互いを見かける程度だった。新人の二人には習熟しなければならない仕事が次々と割り振られたし、居残り残業を強いられることもしばしば有った。二人は深夜に自宅からメールを交換し合ったり携帯で話したりするだけで、逢うのは休日に限られることになってしまった。毎日顔を合わすことが出来ず、電話とメールだけのやり取りで一週間を過ごす二人にとって、物理的にも時間的にも少し距離が離れた分、互いを想う愛情は深化し昇華していった。
正月休みに嶋が麗子を白馬山麓へスキーに連れ出した。
白銀のゲレンデを輝く朝日を浴びて二人は風を切って滑走し、飛ぶ小雪と舞い立つ霧が二人を包んだ。
吹雪く時には、二人は山小屋で、肩を寄せ合い、手を繋いでうとうとと居眠った。ゆらゆらと湯気が揺れる暖かい風呂に入って存分に手足を伸ばす至福の夢の中で二人はまどろんだ。
新人の一年はあっという間に過ぎた。また春が巡って来て今年も百余名の新人が入って来た。嶋も麗子も初々しくて清々しい新人たちを目の当たりにして、一年前の自分とその頃抱いていた志を胸に甦らせた。
四月初めの温かい春の一日、二人は連れだってサイクリングに出かけた。年明けから年度末にかけて仕事は多忙を極めたので久し振りのゆったりしたデートだった。
二人はサイクル・ターミナルでレンタサイクルを借りた。嶋はマウンテンバイクのスタンダードクラスを、麗子は一般自転車のハイクラスをレンタルした。
「そんな怖い自転車、敵わんわよ」
嶋のマウンテンバイクを見て麗子は大仰にふざけた。久方振りのはしゃぎだった。
二人は街中を一気に東へ突っ走って大川沿いの街道へ抜け、犬の散歩をしている人やベンチに座って休んでいる人達を見やりながら、綺麗に舗装整備されたサイクルロードをゆっくりと走った。
「うわッ、きれい!」
天蓋のように道の両側から覆い被さる桜並木や前方にも左右にも広がる山々の霞たなびく薄緑の美景を見やって麗子は感嘆の声を上げた。
「見て、見て!ほら、まるでオブジェのようよ」
麗子が指差した川面には鷺が一羽、じっと動かずに立っていた。
二人は川岸に降りて缶コーヒーを口にし、暫しの休憩を取った。嶋は大きく背伸びをして、思い切り空気を吸い込んだ。まるで生命が洗われるようだった。
五分ほどペダルを踏んで北へ進むと急な上り坂になって来た。
マウンテンバイクを漕いでいる嶋にとっては格別きつい坂道でもなかったが、身体を鍛えることの殆ど無い日常生活の麗子にとっては、この坂道は少し堪えるようであった。一キロ余り続く坂道をフーフー言いながら麗子は頑張って嶋に従いて走った。
右手前方に小さな社が見えてきた時、麗子は、わあッ!やっと着いたわ、と思わず歓声を上げて喜んだ。
「一寸、一服しようね」
「うん、そうしよう」
境内は静寂だった。物音一つ聞こえない。誰一人居ない。まるで時間が止っているようである。二人は暫し無言で山門を潜り、石段に腰を降ろして自然の厳粛さに浸った。
少し寒さを覚えた二人は、再び自転車に跨って有名な国際会議場の勇姿を左手に見ながら市が造営した大きな公園へ入って行った。
公園の内は大勢の人で混み合っていた。今がシーズンの桜の花を見物する人、遠くの山々と国際会議場を借景として楽しめる遊歩道を散策する人、双眼鏡を覗いて野鳥を観察する人、自然林や芝生の庭園で寛ぐ人等々、春のうららかな陽光の下で、それぞれが思い思いに憩っていた。二人も自転車を降りてゆっくりと池の周りを歩いた。池では何組もの若いカップルが自分達だけの夫々の世界にひたってボート遊びを楽しんでいた。
二人は自転車を止めて遊歩道の手すりに手を置き、眼前に広がる素晴しい絶景を見やって暫し佇んだ。
「あなたは海外事業部に配属されたけど、将来はどうするか、何か考えているの?」
突然に麗子が嶋に訊いてきた。
「うん。俺は、四、五年は本社でみっちり実力をつけて実績を積み重ね、その後はニューヨーク、ロンドン、シドニーなどの海外で勤務したいと思っている。学生時代に英会話を習得してこの会社を就職先に選んだのもその為だったし、グローバリーゼ―ションの拡がりで世界の垣根が低くなった今の時代には仕事は何と言っても海外だからな」
嶋は改めて闘志を胸に甦らせたようだった
「其方はどうなんだ?」
麗子の卒業したのは経営学部だった。これからの仕事に十分に活かせる素地は既に持ち合わせていることを素直に喜んでいた。
「わたしは経営企画にも営業企画にも長けてみせるわ。公認会計士か経営管理士の資格を取って専門のプロになろうと思っている。今の仕事を足掛かりにして将来は独立したいと考えているの。企業の決算の適否を指導するだけでなく、経営管理の相談にも乗るコンサルタントになりたいのよ」
麗子は気持ちを高ぶらせた。ただ、嶋が将来は海外に赴くだろうことについては、胸中に複雑な思いが拡がっていた。一緒に付いて行けるに越したことはないが、自分の仕事がどうなるのかの迷いが有った。今の麗子の頭の中には仕事へのモチベーションを高めることが大半を占めていた。
麗子の話を聞いた嶋は、海外へ赴任する時には君を一緒に伴って行きたい、と言おうとした言葉を飲み込んだ。代わりに口を吐いて出た言葉は極めて月並みな物言いだった。
「へえ~、そんな具体的な事をもう考えているんだ。大したもんだな。そうか、しっかり頑張れよ」
「うん。ありがとう」
それから二人は人で混雑する遊歩道を避けて、「子供の楽園」を走り抜け「いこいの森」へ出た。沿道は広々とした芝生地とマツとが絶妙の景観を呈していたし、森には枝垂れ桜が白や紅の見事な花を咲かせていた。芝地にはタンポポが群生し、空にはオオタカが餌を求めて飛翔していたし、アオバズクの繁殖も見られた。
「うわぁッ、良い匂い!」
麗子が歓声を上げて眺めた桃林からは甘酸っぱい仄かな香りが漂って来る。
「この桃林には百本の桃が植えられていて、市内でも屈指の場所なのよ。梅の後の三月中旬から四月中頃までが花の見頃なの、良い時期に来たわね」
桃林の中には花見に訪れた人達がゆっくり観賞出来るように、散策路やベンチが整備されていた。
更に、地下から汲み上げられた井戸水が深さ数センチの浅い人工の小川となって木陰を流れ、水辺には様々な植物が植えられて、周辺のサトザクラは今を盛りと咲き誇っていた。夏には母子で水に触れ合う子供達の人気スポットになると言うことであった。
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