翻る社旗の下で

相良武有

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第一章 悔恨

第9話 麗子、同期の佐々木に相談を持ち掛けるようになる

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 麗子は嶋からの音信が途切れ、途絶えていくに連れて、次第に耐え難い不安を覚えるようになった。便りの無い不安、二人の愛への不安、そして、胸締め付ける寂しさと孤独感。嶋がカナダへ単身赴任すると決まった時から既に解ってもいたし覚悟もしていたことではあっても、何かに縋らなければやりきれない気持に駆り立てられた。
 麗子は次第に同期生で親しい友人でもある人事部の佐々木に相談を持ちかけるようになった。佐々木はいつも気軽に相談に乗って慰めても励ましてもくれた。
佐々木と嶋ではまるで違っていた。嶋は時折、尖がったり角ばったりしたところをシャープに覗かせたが、佐々木にはそれは殆ど無いに等しかった。彼には円やかさと穏やかさが顕著だった。
佐々木の話し振りは飾り気が無く率直で謙虚であったし、自分をひけらかすことも無かった。その態度はもの静かで口数もそう多くは無く、麗子の話に誠実に耳を傾け包み込むような包容力を感じさせた。
趣味は剣道だと佐々木は言った。
「えっ、剣道?」
「そう。女の人にはいつも爺臭いって眉を顰められるんだが、君もやっぱりダサイと思うか?」
佐々木は麗子の顔を窺うようにしてにっと笑った。

 佐々木は高校二年のある朝、床板を激しく踏み鳴らす音や木刀がカンカンと打ち合う音を耳にしてジョギングの足を止めた。辺りは未だ仄暗く、夜は明け切ってはいない。音は近くの大きな民家から聞こえて来るようであった。
 佐々木は、そおっと、音のする格子窓の方へ足音を忍ばせて様子を見に行った。そう広くは無いが剣術の道場が有った。そこで剣道衣に身を包んだ二人が激しく打ち合っていた。ピーンと張り詰めた厳粛な空気が流れ、二人の気迫がそっと見詰める佐々木の身体に圧し迫まって来た。思わず佐々木は窓の格子に手を掛けて二人を凝視した。
三十分ほど激しく打ち合った二人は、やがて、蹲踞の姿勢をとり一礼を交し合って、朝稽古は終わった。面を外した二人の顔を見て佐々木は驚いた。一人は六十歳前後の老人だったが、もう一人は未だ二十歳代の若い女性だった。
佐々木は二人の朝稽古を見て、胸の中に一条の爽やかな風がすうっと吹き抜けたような気がした。生まれて初めて味わう感覚だった。
 朝稽古はほぼ二日に一度の割合で続けられていた。佐々木は都度、道場の格子窓にしがみ付いて二人の申し合いを見詰めた。清冽な空気と二人の気迫に佐々木は雑念を振り払われて、身も心も洗われるようであった。これまでに浸ったことの無い厳かで清々しい気持が身体内に満ち亘った。
 幾日かが経った或る日、佐々木は、稽古を終えて顔や額の汗を拭っている二人に向かって格子窓から声をかけた。道場には看板は架かって居なかった。以前は此処で剣道を教えていたのかも知れないが、今はそういう気配は感じられなかった。
「済みません、お願いします。済みません・・・」
道場の中へ導き入れられた佐々木は老師範に両手を突いて頭を下げた。
「先生、僕にも剣道を教えて頂けないでしょうか?」
ほおっ、という顔付きで老師範は佐々木の顔を覗き込んだ。そして、佐々木の眼をじっと見詰めて問うた。
「どうしてだ?何故に剣道を習いたいのだ?」
「はい、お二人があの張り詰めた緊張の中で、裂帛の気迫を以って追い求めておられるものを、僕も探求してみたいと思います」
老師範はもう一度、ほおっ、という表情で佐々木の顔を見詰めた。
「自分を鍛えて、これからの生きる背骨を心の中にしっかり獲ち得たいと思います」
佐々木は老師範の顔を真直ぐに見て、縋る表情を浮かべた。
老師範は、それ以上は聞かなかった。
「よし解った、良いだろう。早希、明日からお前が稽古をつけてやりなさい」 
「はい、解りました、お父さん」
そして、佐々木の方へ顔を向けた早希は「宜しくお願いします」と軽く頭を下げた。
佐々木は恐縮して床に顔を擦り付けんばかりに低頭した。
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