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第一章 悔恨
第17話 それは突然のことだった
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それは突然のことだった。
その夜、佐々木と麗子は二人だけの遅い夕食を摂っていた。
「どうした?もう食べないのか?」
「ちょっと」
不意に麗子が箸を置いて立ち上がるとトイレに駆け込んだ。直ぐに吐く音がした。
「どうした?麗子」
返事は無く、そのまま静かになって、麗子が出て来る気配も無かった。
「おい、どうしたんだ?」
佐々木は慌ててトイレを覗きに行った。
「一寸、これ、見て」
麗子の声は弱々しかった。佐々木が今までに聞いたことも無いか細い声音だった。佐々木は直感的に胸が騒いだ。
「吐いたのか?腹の具合が悪いんだな?」
その時、佐々木は血の臭いを嗅いだ気がした、が、紅い血の色は何処にも見当たらなかった。
「お腹が痛いのよ、鳩尾の辺りが・・・」
佐々木に顔を向けた麗子は、子供のように訴える口調で言った。
佐々木が便器に顔を近づけてもう一度臭いを嗅いでみると、吐露した汚物の饐えた臭いが生臭かった。
「どうだ?病院へ行こうか?」
「今吐いたところだから、少し様子を見てみる」
「そうか、じゃ、ベッドで横になって居ろ、な」
抱えるようにしてベッドの脇へ連れて行き、衣服を脱がせようとすると、麗子は、自分でするから大丈夫、と言った。布団をかけてやった後、枕元のベッドライトを点けたが、そうしている間も佐々木の胸は不安に動揺した。
「痛みはどうだ?」
「少し楽になったけど・・・吃驚したわ」
麗子の顔からは血の気が失せていた。
「急に吐き気をもよおしたのか?」
麗子は顔を振った。
「何日頃からだ?」
「一月ほど前からか、な」
ぎょっとして佐々木は思わず強い口調になった。
「何故早く言わなかったんだ!」
「だって、直ぐに治まると思ったんだもの」
麗子は甘えるように言った。佐々木は布団の中に手を差し入れて腹を探った。麗子の腹は豊かで温かった。
「痛いのはこの辺か?」
「もう少し上みたい」
くすぐったいわ、麗子はまた甘えた声を出した。滑らかな肌は佐々木の手の下で柔らかく凹んだが、結局、何処が痛いのか、はっきりとは解からなかった。
「大分楽になったわ。あなた食べてよ、冷めてしまうから」
麗子はそう言って布団の中で身繕いをした。安堵の気持が少し佐々木の胸に戻って来た。
佐々木はリビングに戻るとクローゼットを開いて薬箱を取り出した。風邪薬や目薬、便秘薬、傷テープ、水虫の薬、下痢止め薬、鎮痛剤などが出て来た。市販の売薬だが無いよりは良いだろうと胃腸薬を探したが、それは無かった。麗子が既に飲んでしまったようだった。
佐々木は何か大事なものを見忘れていた気がした。この十数年、忙しい仕事に感けて自分のことだけにしか考えが及ばず、その間に、かけがえの無い大事なものを見忘れていたように思った。佐々木は萎える気持ちを掻き立てるようにベッドの麗子に声をかけた。
「腹が痛くなったのは、本当は何日からなんだ?」
「・・・・・」
「ずうっと前からなんだな」
答が無かった。
佐々木がベッドルームに入ると、麗子は眼を閉じて仰向けに寝ていた。その目尻からうっすらと涙が滴っていた。麗子は滅多に涙など流さなかった。麗子の涙は佐々木の胸を締め付けた。
「いつ頃からだ?」
麗子は記憶を手繰るように視眼を動かした。
ある朝の明け方、未だ日が昇る前だった。はっきりとは目覚めていないが、そうかと言って深く眠っている訳でもない麗子が、急に腹の中央部に圧迫感を覚えた。痛みは無いが耐え難いほどの圧力を感じた。二、三度身体に震えが走り、それから背中が圧迫された。麗子は額に汗を滲ませ、吐き気を堪え、身体の震えが止るのを待った。五分か、十分か、やがて、潮が引くように収まって行った。
「三か月ほど前から、ずうっと苦しかったの」
麗子が眼を開いて詫びるように言った。
「どうしてもっと早く言わなかったんだ?うん?」
「直ぐに治まるだろうと思っていたのよ、でも一向に癒らなくて、怖くなって来ちゃって、言えなくなったの。あなたは仕事が忙しそうだし、私の身体のことぐらいで迷惑掛けたくなかったし・・・」
「ま、余り心配するな。明日一緒に病院へ行こう、な」
佐々木は自分の心に広がる不安を打ち消すように明るい声で言った。
「暫く仕事は休んで、早く治すことだ」
そう言って佐々木は、余り食欲も無い夕食を摂る為に、ダイニングキッチンへ入って行った。
そう言えば、今日は日曜日で仕事は休みの日だったな、と佐々木は改めて思った。
冷めて不味い食事を噛み締めていると、麗子が声をかけて来た。
「何だか楽になって来た。久し振りにあなたに優しく介抱して貰ったら、急に効いて来たみたい」
「何言っているんだ、馬鹿」
「ご免ね、あなた。心配掛けて、本当にご免ね」
「謝ることはないよ、お前は心配しないで寝て居れば良いんだ」
麗子は元々丈夫なたちで冬でも滅多に風邪など引かなかったし、最近までは夜遅くまで仕事をした後も疲れた風も見せなかった。
あいつは休み無く働き通しだったのか・・・佐々木は思った。
医者に診て貰ってゆっくり養生させれば、またこれまでのように元気になるだろう・・・
だが、麗子は一眠りした深夜にまた吐いた。
トイレに駆け込もうとした麗子は、然し、間に合わずにリビングで噴き出してしまった。異常を感じて飛び起きた佐々木がその様子を凝視した。
やっぱり又、吐いたわ、と麗子が間の抜けた言葉を発し、佐々木は洗面器と雑巾を用意しながら、そうだな、と呟いた。それから麗子は、発作が起こったようにごぼごぼと洗面器一杯分くらいの大量の汚物を吐いた。その汚物をじっと凝視している麗子が妙に落ち着いているように佐々木には見えた。
麗子は嘔吐した後、佐々木に言われて口を漱ぎ、それから救急車に乗って市立総合病院へ担ぎ込まれた。
その夜、佐々木と麗子は二人だけの遅い夕食を摂っていた。
「どうした?もう食べないのか?」
「ちょっと」
不意に麗子が箸を置いて立ち上がるとトイレに駆け込んだ。直ぐに吐く音がした。
「どうした?麗子」
返事は無く、そのまま静かになって、麗子が出て来る気配も無かった。
「おい、どうしたんだ?」
佐々木は慌ててトイレを覗きに行った。
「一寸、これ、見て」
麗子の声は弱々しかった。佐々木が今までに聞いたことも無いか細い声音だった。佐々木は直感的に胸が騒いだ。
「吐いたのか?腹の具合が悪いんだな?」
その時、佐々木は血の臭いを嗅いだ気がした、が、紅い血の色は何処にも見当たらなかった。
「お腹が痛いのよ、鳩尾の辺りが・・・」
佐々木に顔を向けた麗子は、子供のように訴える口調で言った。
佐々木が便器に顔を近づけてもう一度臭いを嗅いでみると、吐露した汚物の饐えた臭いが生臭かった。
「どうだ?病院へ行こうか?」
「今吐いたところだから、少し様子を見てみる」
「そうか、じゃ、ベッドで横になって居ろ、な」
抱えるようにしてベッドの脇へ連れて行き、衣服を脱がせようとすると、麗子は、自分でするから大丈夫、と言った。布団をかけてやった後、枕元のベッドライトを点けたが、そうしている間も佐々木の胸は不安に動揺した。
「痛みはどうだ?」
「少し楽になったけど・・・吃驚したわ」
麗子の顔からは血の気が失せていた。
「急に吐き気をもよおしたのか?」
麗子は顔を振った。
「何日頃からだ?」
「一月ほど前からか、な」
ぎょっとして佐々木は思わず強い口調になった。
「何故早く言わなかったんだ!」
「だって、直ぐに治まると思ったんだもの」
麗子は甘えるように言った。佐々木は布団の中に手を差し入れて腹を探った。麗子の腹は豊かで温かった。
「痛いのはこの辺か?」
「もう少し上みたい」
くすぐったいわ、麗子はまた甘えた声を出した。滑らかな肌は佐々木の手の下で柔らかく凹んだが、結局、何処が痛いのか、はっきりとは解からなかった。
「大分楽になったわ。あなた食べてよ、冷めてしまうから」
麗子はそう言って布団の中で身繕いをした。安堵の気持が少し佐々木の胸に戻って来た。
佐々木はリビングに戻るとクローゼットを開いて薬箱を取り出した。風邪薬や目薬、便秘薬、傷テープ、水虫の薬、下痢止め薬、鎮痛剤などが出て来た。市販の売薬だが無いよりは良いだろうと胃腸薬を探したが、それは無かった。麗子が既に飲んでしまったようだった。
佐々木は何か大事なものを見忘れていた気がした。この十数年、忙しい仕事に感けて自分のことだけにしか考えが及ばず、その間に、かけがえの無い大事なものを見忘れていたように思った。佐々木は萎える気持ちを掻き立てるようにベッドの麗子に声をかけた。
「腹が痛くなったのは、本当は何日からなんだ?」
「・・・・・」
「ずうっと前からなんだな」
答が無かった。
佐々木がベッドルームに入ると、麗子は眼を閉じて仰向けに寝ていた。その目尻からうっすらと涙が滴っていた。麗子は滅多に涙など流さなかった。麗子の涙は佐々木の胸を締め付けた。
「いつ頃からだ?」
麗子は記憶を手繰るように視眼を動かした。
ある朝の明け方、未だ日が昇る前だった。はっきりとは目覚めていないが、そうかと言って深く眠っている訳でもない麗子が、急に腹の中央部に圧迫感を覚えた。痛みは無いが耐え難いほどの圧力を感じた。二、三度身体に震えが走り、それから背中が圧迫された。麗子は額に汗を滲ませ、吐き気を堪え、身体の震えが止るのを待った。五分か、十分か、やがて、潮が引くように収まって行った。
「三か月ほど前から、ずうっと苦しかったの」
麗子が眼を開いて詫びるように言った。
「どうしてもっと早く言わなかったんだ?うん?」
「直ぐに治まるだろうと思っていたのよ、でも一向に癒らなくて、怖くなって来ちゃって、言えなくなったの。あなたは仕事が忙しそうだし、私の身体のことぐらいで迷惑掛けたくなかったし・・・」
「ま、余り心配するな。明日一緒に病院へ行こう、な」
佐々木は自分の心に広がる不安を打ち消すように明るい声で言った。
「暫く仕事は休んで、早く治すことだ」
そう言って佐々木は、余り食欲も無い夕食を摂る為に、ダイニングキッチンへ入って行った。
そう言えば、今日は日曜日で仕事は休みの日だったな、と佐々木は改めて思った。
冷めて不味い食事を噛み締めていると、麗子が声をかけて来た。
「何だか楽になって来た。久し振りにあなたに優しく介抱して貰ったら、急に効いて来たみたい」
「何言っているんだ、馬鹿」
「ご免ね、あなた。心配掛けて、本当にご免ね」
「謝ることはないよ、お前は心配しないで寝て居れば良いんだ」
麗子は元々丈夫なたちで冬でも滅多に風邪など引かなかったし、最近までは夜遅くまで仕事をした後も疲れた風も見せなかった。
あいつは休み無く働き通しだったのか・・・佐々木は思った。
医者に診て貰ってゆっくり養生させれば、またこれまでのように元気になるだろう・・・
だが、麗子は一眠りした深夜にまた吐いた。
トイレに駆け込もうとした麗子は、然し、間に合わずにリビングで噴き出してしまった。異常を感じて飛び起きた佐々木がその様子を凝視した。
やっぱり又、吐いたわ、と麗子が間の抜けた言葉を発し、佐々木は洗面器と雑巾を用意しながら、そうだな、と呟いた。それから麗子は、発作が起こったようにごぼごぼと洗面器一杯分くらいの大量の汚物を吐いた。その汚物をじっと凝視している麗子が妙に落ち着いているように佐々木には見えた。
麗子は嘔吐した後、佐々木に言われて口を漱ぎ、それから救急車に乗って市立総合病院へ担ぎ込まれた。
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