翻る社旗の下で

相良武有

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第三章 無念

第35話 それは沢木が五十二歳の時だった

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 それは沢木が本社営業部の部長に昇進して三年目の、五十二歳の時だった。
会社は毎年三月中旬に幹部研修会という名の大掛かりな全社経営会議を開催していたが、今年も例外ではなく今日がその日であった。
失われた二十年と言われたリーマンショック以後の長い不況から漸く抜け出し、急激な円安の進行が株価を押し上げて大企業の業績は回復と上昇の一途を辿っている。物価の上昇と消費の低迷で国内経済の回復は鈍いものの世界の果てまで拡がるグローバル化で、輸出で稼ぐ大企業は空前の利益を上げている。 
 沢木は営業部に出勤する代わりに本社ビルの十階に在る大ホールへ向かった。冬晴れの日で、きりっとした冷気が沢木の身体を包み、彼の意識は否応無しにはっきりしたものになっていた。
ホールの出入口は後方と前方に二箇所あり、沢木は後方の入口から入って行った。既に開会の二十分前、濃紺の背広を纏った男達と黒いスーツを着込んだ極く少数の女性達が早くも固唾を飲んで身構えていた。
 会議は定刻に始まった。
進行役の社長室長が会議の趣旨とスケジュールを説明し、会長が開会の訓示を垂れた。が、社会貢献の話や精神訓話ばかりで企業経営の指針となり得るものは殆ど無かったので、出席者達は誰一人としてそれをまともに聞いている者は居なかった。誰もが業績を上げることによってしか己の栄進の道が無いことを知っていたし、短期的に業績を上げようと思えば、企業買収や事業統合或は人員削減や資産売却等のリストラ策を断行する以外に方法が無いことも、仕事のプロ達は熟知していた。そして、沢木等部長の任期というものは精々三、四年なのであった。
会長の次に演壇に立った社長は、今の好況の波に乗って更なる成長を期す為に、新製品の開発とそれを可能にする新技術の確立、それに新しい大口ユーザーの開拓を声高に訴えた。そして、百億円の利益上積みはミニマムだ、利益を上げられない事業など何の意味も無い、事業解体して部門が霧散霧消するのが嫌なら何が何でも利益をさらに積み増すことだ、と更なる利益積み上げを強い口調で促した。
 間も無く、沢木は途轍もない疲労感を覚えた。
異変が生じたのは、営業を統括する大田常務が檄を飛ばし始めた時だった。
突然、二、三度身体に震えが走り、胸が圧迫されて、沢木は椅子の肘掛を握り締めた。
鳩尾の奥の方、食道と胃の繫なぎ目辺りがぎゅう~っと締め付けられる感じになり、痛いと言うよりも圧迫感で気持ちが悪くなって来た。沢木を本社営業部長に登用してくれた大田常務の赤ら顔が霞み、その恫間声は訳の解からぬ音声となって沢木の頭上を飛び交った。沢木は額に脂汗を滲ませ、吐き気を堪え、深呼吸をして身体の震えを抑えようと努めた。五分、否、十分ほど経って、漸く潮が引くように治まって行った。経営会議は沢木の中で秩序と静謐を取り戻し、彼はその構成員に復帰した。そして、幸いにも会議が終わるまで、沢木は平常を保つことが出来た。
 いつもなら経営会議の後にはささやかな懇親会が催されたが、この日は引き締めの為か何かの都合で省略されていた。沢木は顔馴染みの同僚に挨拶し、会場から少し歩いて車を拾った。冷気に当ると胸がチクっと痛む気がした。

 自宅に帰り着いた沢木は少なからず不安な思いを抱えてはいたが、その不安を掻き消すように、いつも通り晩酌を嗜んで早めにベッドに横たわった。相当疲れていたのか直ぐに眠りについた。だが、数時間後、吐き気を覚えて目覚め、起きて胃薬を飲んだ。ところが、治まるどころか更に激しい締め付け感が襲って来て、背中や肩の筋肉も痛み出し、その上、大量の冷汗が、髪の毛がびしょ濡れになるほどに流れ出て来た。それは今までに経験したことの無い量だった。
鳩尾のきつい締めつけ感、節々の痛み、大量の冷汗・・・これは何時もと違うな、と沢木は思った。
 それでも未だ、沢木は二時間ほど我慢してベッドで身体を丸めて横たわっていたが、到頭、鳩尾の圧迫感が耐えられなくなって妻の恵子を揺すり起こした。
「これは何時もと違う。ちょっとヤバいかも・・・救急車を呼んでくれないか」
「そうお、解った」
小さく答えて一一九番する恵子が妙に落ち着いているように沢木には見えた。沢木は恵子を頼もしく思った。
 
 救急車は三十分ほど走ってサイレンを止め、スローダウンして停車した。市立総合病院の救急玄関口だった。
救急車の後部ハッチが開き、後はあれよあれよと言う怒涛の展開となった。
病院のスタッフが救急車からストレッチャーを引き出し、それはガラガラと救命救急室に入った。
「移動しますよ」
何人かが「いち、にっ、さん」で沢木の身体を病院の寝台に移した。
そして、沢木はあっと言う間に服を脱がされて裸にされ、作務衣のようなものを着せられた。下半身丸出しであったが、不安と恐怖が強くて恥ずかしいという感覚は無かった。
血圧計、心拍計、心電図のセット。
酸素吸入器、点滴のセット。
採血、レントゲン撮影、エコー。
ピ、ピピピという機械や器具の音。
医師の指示声や看護師のやり取りする声。
「次は尿道カテーテルです」
「おしっこの管、通します」
突然の痛みに沢木は「ううう」と呻いた。
それから、名前、生年月日、体重、身長、病歴、服用薬、痛みの状況、など色々なことを同時に矢継ぎ早に聞かれた。
 病状と治療方法については担当の医師から説明があった。
「沢木さん、あなたは急性心筋梗塞になって居られます。比較的危険な状態なので緊急手術が必要です。手術はいわゆる心臓カテーテル、ステント留置を行います。あなたの場合は足の付け根即ち大腿動脈から心臓まで管を通して処置します。心配しなくて良いですよ、大丈夫ですから」
最後に、提示された書類に承諾のサインをして沢木は手術室に運ばれた。
 恵子は手術室には入れなかった。
手術室の待合室で長椅子に座って沢木が出て来るのを待った。
恵子の気持は激しく動揺していた。何もする気になれず何も考えられず、放心状態だった。
恵子の頭の中を沢木の不在が掠めた。
沢木の居ない人生など考えられなかった。それがどういうものなのか想像もつかなかった。結婚してからずうっと一緒で、二人の人生には希望の光が溢れていた。恵子は独立して自分の事務所を持ち、新人を雇って先生となっている。二人の子供の母となり、家庭を切り盛りして、大会社の本社営業部長である沢木を懸命に内助している。そんな明るい現実がこれからも未だ未だ続く筈だった。恵子は、万一、沢木が死にでもすればそれほど酷いことは無い、と思った。胸が塞がれた。
 手術室では、テキパキと手術の準備が進んでいた。
「始めます」
沢木は、心臓に管を入れての手術だから全身麻酔だろう、と思っていた。

目が覚めたら、病室で、かたわらに妻が居るパータンかな・・・
だが、いっこうに麻酔をかける気配は無かった。
顔に布をかけられ「麻酔します。チクっとしますよ」の声と同時に足の付け根に痛みが走った。ああ、全身麻酔はしないんだ・・・
それからは、時折、「気分、どうですか?」「気持ち悪くないですか?」と看護師から声をかけられたが、どんなことが進行しているのか、沢木には全く解らなかった。
一般的なカテーテルによる手術だとすれば
・大腿動脈からカテーテル挿入

・造影剤投入、狭窄状況確認
・狭窄部バルーンで狭窄部を解放
・ステント留置・・・


 手術は一時間程度で終了した。
「終わりましたよ」

最初の局部麻酔の痛みの後は、体内を異物が通る違和感や気持ち悪さは無かった。
それに、鳩尾の圧迫感や違和感は完全に無くなっていた。
背中や肩の痛みもいつの間にか消えていた。どちらかと言えば、尿道カテーテルの気持ち悪さと尿意の方が気になった。声をかけてくれた看護師に沢木は訊ねた。
「おしっこは、このまましてもいいのですか?」
「はい、大丈夫ですよ」
沢木は
股間に力を入れてみた。
排尿の感覚はあったが、出ている感覚は無かった。
沢木にとっての、緊張の初手術体験は終了した。

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