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第三章 無念
第40話 学生時代の友人が面会にやって来た
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入院十日目。
首の点滴チューブが外されて身体に付いているものが全て無くなった。
無線でどこかにデータが飛んでいる心電図測定用の機械は未だ肩から袈裟懸けにして持ち歩いてはいたが、もうそれだけだった。気分は頗る快適になった。
午前中、初めてのシャワーを浴びた。自宅以来実に、十日振りのシャワーだった。
十日の間に、身体を数回拭いて貰い、洗髪も一回して貰ったが、やはり、温かい湯を全身に浴びて沢木の気分は冴え渡った。
院内を自由に歩き回ることも出来るし、シャワーも予約すれば使えるということで、沢木は段々と病人から普通の元気人へ戻りつつあった。
その後は特に検査もなく、平穏で少なからず暇で、ウトウトしてみたりテレビ見てみたりして長閑な一日を過ごした。
うつらうつらとまどろんでいた沢木の部屋を学生時代からの友人である柴田が面会に訪れた。
「なるほど、個室に移ったのか」
「ああ。いつまでも集中治療室という訳にもいかないのでな」
沢木と柴田とは大学時代にしょっちゅう一緒に酒を飲んだり映画を観たり、徹夜で囲碁を打ったりした仲であったが、それぞれ出版社と上場会社に勤務するようになってからは、会うのは年に二度か三度、少ない時には数年に一度ということも珍しくはなかった。特に沢木が福岡へ赴任していた時がそうであった。職業の異なった男が友情を持続するのは誠に難しいものである。それが二年前、柴田がふらりと沢木の会社を訪れて、沢木に不可解な提案をして以来、会う回数が飛躍的に増加したのだった。
「つい先日逢ったばかりなのに、暇なのか?」
沢木は遠慮なく訊いた。
出版社の編集長たる者が、友人が入院したくらいで社を抜け出せるほど悠長ではないだろう、それとも、仕事が一段落したということか?
「うん?・・・ああ、いや、そうでもないんだが・・・」
「どうした?何か変だぞ、お前」
「なあ、やっぱり、俺の雑誌に連載を書いて貰ったのが、悪かったのかなぁ。あれが身体に差し障ったんじゃないのか?」
「おう、そうさな、よくぞ気付いてくれたよ、入院費用はお前持ちだな」
沢木は柴田をからかった。
「冗談は兎も角として、書き続けていくうちに妙なことになって行ったんだ。自分自身と真正面から対話せざるを得なくなった。例えば、何事かを見る、見ると何かを感じる、そして考える、それを文章に纏めようとする。その訓練を知らず知らずの内に自分に課し続けていたんだな」
それがもう二年も続いている。それまでは仕事に関連の有ること以外は、何も感じず何も考えずただ漠然と物事を見ていたのに、眼と心と頭の姿勢が一変してしまった。そして、仕事とは何程の価値が有るものなのか、栄進とは何なのか、人生の幸せとは何か、どういう時に人は幸せを感じるのか、沢木はさまざまなことについて自分と向き合って対話した。
確かに、十数枚の原稿を毎月締め切りに合わせて書き続けるのは辛くきつかったし、酒の力を借りて勢いをつけて書いたことも何度かはあった。だが、沢木は締切りに追われながら「営業最前線の雑感」のようなものを書き続けるうちに、その作業が次第に愉しく且つ面白くなっていたのも事実だった。時代とその波の中に生きるビジネスマンの健気さと醜悪さを浮かび上がらせることに成功し、連載は好評を博した。勿論、雑誌には本名ではなく筆名で載せられた。
「なぁ、焦りは無いのか?」
「焦り?」
「同期の奴に先を越されるとか、後から来た奴に追い抜かれるとか、さ」
「そりゃ、仕事のことが気にならないと言えば嘘になるわな。だが、気になって仕方が無いという程でもないんだな、これが」
「その仕事の方は問題無いのか?」
「ああ、次長の安田がそれなりに上手くやってくれているようだよ」
無論、仕事のことを思い出さない訳は無く、頭の隅に引っ掛かってはいるけれども、沢木があれこれと思い悩む時間は、一日の内では斑で然も次第に少なくなっていた。
沢木は、当初、挫折が徹底的に自分を苛み、地獄の底に突き落とすのではないかと思ったが、それ程のことは無かった。
沢木は思う。
ひたすら会社の仕事をやり続けて来たけれども、それは他にやることややりたいことが無かったから、或いは、他人に負けるのが嫌だから懸命にやって来ただけのことかもしれない。ついこの間までは、これが天職と信じる振りをして来たが、子供の頃は好きな囲碁に夢中になりもし、基本的には勉強が出来る良い子になろうと努力したし、学生時代は優等生になろうと頑張りもした、仕事もその延長線上に在っただけのことだろう。
入院という安息が曖昧なまま混沌としていた心の状態に一つの形を与えたように思われた。沢木は、焦りや苦しみや嫉妬が、或いは、諦めや哀しみや悩みが次第に現実感を失い、消滅してしまったように感じた。そして、自分はもう激しい何物かにぶつかって闘って行くことは出来なくなったのかもしれない、全てが心と身体の中で綺麗に濾過され通り過ぎて行ったのかもしれない、しみじみそう思った。
首の点滴チューブが外されて身体に付いているものが全て無くなった。
無線でどこかにデータが飛んでいる心電図測定用の機械は未だ肩から袈裟懸けにして持ち歩いてはいたが、もうそれだけだった。気分は頗る快適になった。
午前中、初めてのシャワーを浴びた。自宅以来実に、十日振りのシャワーだった。
十日の間に、身体を数回拭いて貰い、洗髪も一回して貰ったが、やはり、温かい湯を全身に浴びて沢木の気分は冴え渡った。
院内を自由に歩き回ることも出来るし、シャワーも予約すれば使えるということで、沢木は段々と病人から普通の元気人へ戻りつつあった。
その後は特に検査もなく、平穏で少なからず暇で、ウトウトしてみたりテレビ見てみたりして長閑な一日を過ごした。
うつらうつらとまどろんでいた沢木の部屋を学生時代からの友人である柴田が面会に訪れた。
「なるほど、個室に移ったのか」
「ああ。いつまでも集中治療室という訳にもいかないのでな」
沢木と柴田とは大学時代にしょっちゅう一緒に酒を飲んだり映画を観たり、徹夜で囲碁を打ったりした仲であったが、それぞれ出版社と上場会社に勤務するようになってからは、会うのは年に二度か三度、少ない時には数年に一度ということも珍しくはなかった。特に沢木が福岡へ赴任していた時がそうであった。職業の異なった男が友情を持続するのは誠に難しいものである。それが二年前、柴田がふらりと沢木の会社を訪れて、沢木に不可解な提案をして以来、会う回数が飛躍的に増加したのだった。
「つい先日逢ったばかりなのに、暇なのか?」
沢木は遠慮なく訊いた。
出版社の編集長たる者が、友人が入院したくらいで社を抜け出せるほど悠長ではないだろう、それとも、仕事が一段落したということか?
「うん?・・・ああ、いや、そうでもないんだが・・・」
「どうした?何か変だぞ、お前」
「なあ、やっぱり、俺の雑誌に連載を書いて貰ったのが、悪かったのかなぁ。あれが身体に差し障ったんじゃないのか?」
「おう、そうさな、よくぞ気付いてくれたよ、入院費用はお前持ちだな」
沢木は柴田をからかった。
「冗談は兎も角として、書き続けていくうちに妙なことになって行ったんだ。自分自身と真正面から対話せざるを得なくなった。例えば、何事かを見る、見ると何かを感じる、そして考える、それを文章に纏めようとする。その訓練を知らず知らずの内に自分に課し続けていたんだな」
それがもう二年も続いている。それまでは仕事に関連の有ること以外は、何も感じず何も考えずただ漠然と物事を見ていたのに、眼と心と頭の姿勢が一変してしまった。そして、仕事とは何程の価値が有るものなのか、栄進とは何なのか、人生の幸せとは何か、どういう時に人は幸せを感じるのか、沢木はさまざまなことについて自分と向き合って対話した。
確かに、十数枚の原稿を毎月締め切りに合わせて書き続けるのは辛くきつかったし、酒の力を借りて勢いをつけて書いたことも何度かはあった。だが、沢木は締切りに追われながら「営業最前線の雑感」のようなものを書き続けるうちに、その作業が次第に愉しく且つ面白くなっていたのも事実だった。時代とその波の中に生きるビジネスマンの健気さと醜悪さを浮かび上がらせることに成功し、連載は好評を博した。勿論、雑誌には本名ではなく筆名で載せられた。
「なぁ、焦りは無いのか?」
「焦り?」
「同期の奴に先を越されるとか、後から来た奴に追い抜かれるとか、さ」
「そりゃ、仕事のことが気にならないと言えば嘘になるわな。だが、気になって仕方が無いという程でもないんだな、これが」
「その仕事の方は問題無いのか?」
「ああ、次長の安田がそれなりに上手くやってくれているようだよ」
無論、仕事のことを思い出さない訳は無く、頭の隅に引っ掛かってはいるけれども、沢木があれこれと思い悩む時間は、一日の内では斑で然も次第に少なくなっていた。
沢木は、当初、挫折が徹底的に自分を苛み、地獄の底に突き落とすのではないかと思ったが、それ程のことは無かった。
沢木は思う。
ひたすら会社の仕事をやり続けて来たけれども、それは他にやることややりたいことが無かったから、或いは、他人に負けるのが嫌だから懸命にやって来ただけのことかもしれない。ついこの間までは、これが天職と信じる振りをして来たが、子供の頃は好きな囲碁に夢中になりもし、基本的には勉強が出来る良い子になろうと努力したし、学生時代は優等生になろうと頑張りもした、仕事もその延長線上に在っただけのことだろう。
入院という安息が曖昧なまま混沌としていた心の状態に一つの形を与えたように思われた。沢木は、焦りや苦しみや嫉妬が、或いは、諦めや哀しみや悩みが次第に現実感を失い、消滅してしまったように感じた。そして、自分はもう激しい何物かにぶつかって闘って行くことは出来なくなったのかもしれない、全てが心と身体の中で綺麗に濾過され通り過ぎて行ったのかもしれない、しみじみそう思った。
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