翻る社旗の下で

相良武有

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第三章 無念

第41話 沢木、漸く退院の運びとなる

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 翌日、心臓細胞の壊死率検査の結果を踏まえて、退院後の治療方針を担当医師から恵子と共に聞くことになった。
「検査の結果を単刀直入に言いますとは、現在機能障害のある約十五%のうち、凡そ七%は壊死してしまっています。これはもう元には戻らないので、一生、心臓の機能が人より弱い状態で生活しなければならないことになります。残り八%については、時間をかけて治療をしていけば、機能が元に戻る可能性があります。全体的には、良い方向で改善していますから、人並みの生活は送れるでしょう」
「はい、有難うございます」
「沢木さん、今までに心筋梗塞の前触れのようなものは無かったですか?例えば、動機や息切れがするとか時々胸が圧迫されるとか、夜中に苦しくて目が覚めるとかよくおしっこに行くとか・・・」 
「はあ、ゴルフが下手になったことくらいですかね、ハッハッハッ。まあ、冗談は兎も角として、そう言われれば思い当たることも無くは無いですね」
確かに、時たま息苦しくなって目が覚めることが有ったし、日中にやたらと眠たくて仕事中についうとうとしたこともあった。
「それは睡眠無呼吸症候群ですね。夜だけ頻尿と言うのは無かったですか?」
「二年ほど前から、夜中にほぼ毎日トイレに起きるようになりましたね」
「それは心臓病の有力なサインだったのですよ」
胸の圧迫感も二ヶ月に一度くらいの頻度で感じていたが、深呼吸をしたり息を飲み込んだりしている内に収まったので沢木は気にも留めていなかった。
また、階段を駆け上がったり、仕事で大声を発したりすると、直ぐに息が上がってしまった。
「単純に、体力が落ちたのかな、と考えていましたが、心臓が悲鳴を上げていたのかも知れませんね」
「そうですよ。手術に入った時は瀕死の状態で、後三時間も遅れていたら生命は無かったんです。あなたは危うく天上界の住人になるところを天国の門前で追い返されたのですからね。これからは二度と同じ過ちを繰り返さないように、あやしいな、と思ったら直ぐに病院へ来て下さいよ」
 心筋梗塞は、冠動脈が閉塞や狭窄などを起こして血液の流量が下がり、心筋が虚血状態になって壊死してしまう病気であるが、沢木の場合も、三本有る冠動脈の内の二本が狭窄を起こし、心臓の左下部分から壊死が始まっていたのだった。
ビデオで見ると、確かに狭窄を起こした部分には血流は殆ど見られず、が、其処へカテーテルが通ると瞬時にして血流が戻る様子が良く解った。
 
 また、栄養士の先生からも退院後の食生活についてアドバイスがあった。
先生からのアドバイスは、カロリーと塩分コントロールの話で恵子が熱心に拝聴した。
そもそも沢木はこれまでカロリーや塩分などを気にしたことは無かった。食べたい時に、食べたい物を、食べたいだけ食べる生活を五十年間送って来た。一食当たりのカロリー等と言われてもよく解らなかった。
だが、そんな不摂生な生活が仇となって、今回、死にかけたことを考えると、これからは先生のアドバイスに従おう、と真剣にそう思った。
 外食中心を自宅での食事に、洋食から和食中心に、一日の目安は千六百~千八百カロリーに、塩分は一日六グラム、野菜いっぱいでご飯は軽めに等々、恵子は熱心にメモを取りながら耳を傾けた。病院で出されていたメニューや代表的な料理のカロリーが乗っている資料も話と一緒に頂戴した。さようなら高カロリー、であったが、病院内では全てが病院食だったので誘惑に駆られる要素は無かったが、退院後、シャバに出て誘惑に負けない意思が自分にあるか、沢木は大変心配になった。

 担当医師と栄養士の話の後、沢木と恵子は明日の退院に向けての準備を始めた、が、私物がほとんど無かったので、荷物の纏めはあっという間に終わってしまった。
 夕刻、会社の若い部下たちが見舞いにやって来た。
この病院は会社からはかなり遠くて結構時間がかかっただろうに、わざわざ来てくれたことに沢木は恐縮した。ただ、沢木の病気が心臓病だったので、見舞いに来た部下たちもどのように接して良いのか戸惑って様子で「まぁ、とにかくゆっくり静養して下さい」と言って早々に引き揚げて行った。部長代理になった安田が彼らを見舞いに寄こしたようだった。
 
 愈々、退院の日。
朝食を済ませて早速退院の準備に取り掛かった。退院は午前中なので結構忙しかった。
恵子が持って来た服とジーンズに着替えスニーカを履いた。
薬剤師から次回通院までの薬を貰い、事務の人から清算書を受け取って病室を後にした。
会計窓口で入院・治療費の清算である。
今回は額面一式で二百万円だった。内訳を見るとカテーテル手術にかかった費用が大半を占めていた。が、高額医療補助や限度額適用認定などで実際に支払ったのは十万円余りだった。更に、健保組合の負担還元制度等で最終的な自己負担額は二万円程度になるとのことで、沢木は日本の医療制度の一端に触れた気がした。
 清算を済ませて正式に退院となった沢木は、十二日振りに自分の足で建物の外に踏み出した。退院直後の身体は、何かふわぁっと浮いたような感じだった。沢木は息を吸い込んでゆっくり歩いた。
 外は風も無く穏やかで空はよく晴れていた。
陽が燦然と輝き、入院中に病室から見たビルや家々や店の一つひとつが、鮮明に沢木の眼を射た。
毎日見慣れた丘の上の駅が前方に見えた時、恵子が沢木に尋ねた。
「今、一番に何がしたい?」
「散髪がしたいな」
沢木は、嫌な思いを早く断ち切りたいように、そう答えた。
「あとは?」
「お前とゆっくり家で過ごしたい」
恵子の運転する車は駅前の商店街を抜け、二人の家へと真直ぐに走った。
帰り着いた我が家は、十日程度の留守では何の変化も無く、出て行った時のままだった。まずは、これから二か月程度、自宅療養ということで沢木は家で過ごすことになっている。
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