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第三章 無念
第42話 退院後の生活は食事と運動と睡眠が三大要素となった
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退院後の生活は体調管理と体力回復を主眼に、食事と運動と睡眠が三大要素となった。それもなるべく変化の少ない生活スタイルを心掛けなければならなかった。初めて大病を患って、健康管理と言うそれまで全く気にも留めていなかったことが生活の一番大事な中心となり、沢木の生活は必然的に類型化し固定化して行った。
朝は六時に起きて七時までに食事を済ませる。八時過ぎに恵子が仕事に出かけた後は新聞を読んだり読書をしたり、偶には室内の掃除をしたり書斎の整理をしたりして午前中を過ごす。
午後になるとズボンのベルトに万歩計を付けてウオーキングに出かける。沢木は一日一万歩の歩行を自分に課した。然し、それは沢木が思った以上に大変だった。
最初の日、一時間歩いて歩行計を見ると未だ七千歩を少し上回った程度だった。結局、一万歩を歩き切るのに一時間半程を費やさなければならなかった。沢木は商店街の左右の店々を覗き、大型商業施設のブックストアで本を探し、川沿いの桜並木を見上げつつ、散歩を愉しんだ。それまで朝晩の通勤時にただ通り過ぎるだけだった街の風景が新鮮な色彩を帯びて沢木の眼を射るようになった。
食事は恵子が居ても居なくても定刻に摂るようにした。栄養士から受けたアドバイスを基に恵子は毎日美味しい料理を丁寧に作ってくれたし、帰りが遅くなる日には前日に作り置いてもくれた。恵子は料理が好きで味は沢木の好みに良く合っていた。アルコールの制限は無かったのでこれまで同様に沢木は晩酌を愉しんだが、飲み過ぎないように従前の半分程度の量に押さえた。今日は徹底的に呑むぞ、と言うような乗りの飲み会にはもう参加出来ないな、沢木はそう思うと少し寂しくなった。又、これまで沢木は比較的早食いだったが、出来るだけよく噛み時間をかけて飲食するようにした。
就寝は午後十一時と決め、早寝早起きを心掛けた。元々が横になれば直ぐに眠れるタイプだったので睡眠状態は良好だった。
全ては健康の為に・・・平日も休日も休前日も無くなった沢木の生活サイクルは次第に安定し固まって行った。
健康第一の生活を心掛けている沢木は、心筋梗塞を患ったことで出来なくなったことが幾つか有ることに気付いた。
第一に服薬の制限があった。数種類の心臓薬を服用しているので、従前のように気軽に市販薬を飲めなくなった。サプリメントや漢方薬は問題なかったが、それ以外の服用は医師に相談しなければならなくなった。
次に保険に入り難くなった。新たに加入しようとすると間違い無く審査が厳重になった。
更に、歯の治療が難しくなった。
「バイアスピリンやプラビックスを服用しているので、出血を伴う治療は、街の歯科医では対応出来ないでしょう」
主治医にそう言われた。
その他にも、サウナやスポーツクラブ、絶叫マシーン、献血、レーザー脱毛、温泉、ダイビング、マッサージ等々、入会時の条件や利用時の注意に気を付けなければならないものが色々と有った。
沢木は、今まで気にも留めなかった注意書や但し書き、説明書や契約条項等をきちんと読まなければいけない、其れ等に気配りしながら生活しなければいけなくなったことをはっきりと悟った。
もう一つ、心筋梗塞を発病した後に顕著になったのが五十肩だった。
両腕が以前に比べて上がらなくなった。無理な姿勢をすると肩から腕の付け根に激痛や痺れが走った。電車の吊り革に痛くて摑まれなくなった。洋服に腕を伸ばして袖を通そうとすると激痛が来た。背中に腕が回らない、寝ていて頭上のものを取ろうと腕を伸ばすと激しい痛みなどそれまで何気なく出来ていた動作が出来なくなった。
慰めか咎めかは解らなかったが、恵子が、有る時、何気無くさらりと言った。
「細かいところに余り気を使わずズボラで大らかが取り柄だったあなたが、近頃、料簡が狭くなって、神経質とまでは言わないけれども、何だか堅苦しくなったわね」
沢木はどう応えて良いか判らなかった。
退院二週間後に初めての検診があった。
担当医師の診察を受ける前に採血、胸部レントゲン撮影、心電図、エコー、尿検査等の検査を終えた沢木はちょっぴり不安な気持ちを抱えハラハラしながら順番を待った。
待合室で出逢った看護師が声をかけてくれた。
「沢木さん、体調は如何ですか?胸が痛いとか苦しいとかということは無いですか?」
「はい、有難うございます。今のところは特にこれと言って・・・」
検査結果は概ね良好だった。
心臓の大きさは肥大の様子も無く入院時に比べて普通サイズに戻りつつあったし、心電図も安定、心臓の健康状態をチェックするBNP値も大幅に低下、糖尿の数値も許容内、悪玉コレステロールの値も規定値以下に押さえられていた。降圧利尿剤の効き目もあって腎機能の働きも安定しており、服薬の種類と量も変わらなかった。投薬は六カ月後に行う心エコーとカテーテル検査の結果が良ければ見直しを行うとのことだった。沢木はホッと胸をなでおろした。
診察の終わりがけに不安になっていた五十肩について聞いてみた。が、医師は強く否定した。
「五十肩と心筋梗塞の関連は全く有りません。術後の後遺症にも関係無いです。もし、酷いようで大変なら専門の先生に診て貰って下さい。但し、温泉療法と漢方くらいしか対処法は無い筈ですよ。痛みを和らげる薬の服用は出来ませんから、肩の体操をするなどなるべく運動で肩を動かして症状が治まるのを待つしか無いでしょう」
次回の検診は一カ月後と決まった。
沢木は、心身が未だこの状態では激烈な営業の最前線を牽引し束ねて行く部長の仕事は出来ないかも知れないな、とふと思った。
朝は六時に起きて七時までに食事を済ませる。八時過ぎに恵子が仕事に出かけた後は新聞を読んだり読書をしたり、偶には室内の掃除をしたり書斎の整理をしたりして午前中を過ごす。
午後になるとズボンのベルトに万歩計を付けてウオーキングに出かける。沢木は一日一万歩の歩行を自分に課した。然し、それは沢木が思った以上に大変だった。
最初の日、一時間歩いて歩行計を見ると未だ七千歩を少し上回った程度だった。結局、一万歩を歩き切るのに一時間半程を費やさなければならなかった。沢木は商店街の左右の店々を覗き、大型商業施設のブックストアで本を探し、川沿いの桜並木を見上げつつ、散歩を愉しんだ。それまで朝晩の通勤時にただ通り過ぎるだけだった街の風景が新鮮な色彩を帯びて沢木の眼を射るようになった。
食事は恵子が居ても居なくても定刻に摂るようにした。栄養士から受けたアドバイスを基に恵子は毎日美味しい料理を丁寧に作ってくれたし、帰りが遅くなる日には前日に作り置いてもくれた。恵子は料理が好きで味は沢木の好みに良く合っていた。アルコールの制限は無かったのでこれまで同様に沢木は晩酌を愉しんだが、飲み過ぎないように従前の半分程度の量に押さえた。今日は徹底的に呑むぞ、と言うような乗りの飲み会にはもう参加出来ないな、沢木はそう思うと少し寂しくなった。又、これまで沢木は比較的早食いだったが、出来るだけよく噛み時間をかけて飲食するようにした。
就寝は午後十一時と決め、早寝早起きを心掛けた。元々が横になれば直ぐに眠れるタイプだったので睡眠状態は良好だった。
全ては健康の為に・・・平日も休日も休前日も無くなった沢木の生活サイクルは次第に安定し固まって行った。
健康第一の生活を心掛けている沢木は、心筋梗塞を患ったことで出来なくなったことが幾つか有ることに気付いた。
第一に服薬の制限があった。数種類の心臓薬を服用しているので、従前のように気軽に市販薬を飲めなくなった。サプリメントや漢方薬は問題なかったが、それ以外の服用は医師に相談しなければならなくなった。
次に保険に入り難くなった。新たに加入しようとすると間違い無く審査が厳重になった。
更に、歯の治療が難しくなった。
「バイアスピリンやプラビックスを服用しているので、出血を伴う治療は、街の歯科医では対応出来ないでしょう」
主治医にそう言われた。
その他にも、サウナやスポーツクラブ、絶叫マシーン、献血、レーザー脱毛、温泉、ダイビング、マッサージ等々、入会時の条件や利用時の注意に気を付けなければならないものが色々と有った。
沢木は、今まで気にも留めなかった注意書や但し書き、説明書や契約条項等をきちんと読まなければいけない、其れ等に気配りしながら生活しなければいけなくなったことをはっきりと悟った。
もう一つ、心筋梗塞を発病した後に顕著になったのが五十肩だった。
両腕が以前に比べて上がらなくなった。無理な姿勢をすると肩から腕の付け根に激痛や痺れが走った。電車の吊り革に痛くて摑まれなくなった。洋服に腕を伸ばして袖を通そうとすると激痛が来た。背中に腕が回らない、寝ていて頭上のものを取ろうと腕を伸ばすと激しい痛みなどそれまで何気なく出来ていた動作が出来なくなった。
慰めか咎めかは解らなかったが、恵子が、有る時、何気無くさらりと言った。
「細かいところに余り気を使わずズボラで大らかが取り柄だったあなたが、近頃、料簡が狭くなって、神経質とまでは言わないけれども、何だか堅苦しくなったわね」
沢木はどう応えて良いか判らなかった。
退院二週間後に初めての検診があった。
担当医師の診察を受ける前に採血、胸部レントゲン撮影、心電図、エコー、尿検査等の検査を終えた沢木はちょっぴり不安な気持ちを抱えハラハラしながら順番を待った。
待合室で出逢った看護師が声をかけてくれた。
「沢木さん、体調は如何ですか?胸が痛いとか苦しいとかということは無いですか?」
「はい、有難うございます。今のところは特にこれと言って・・・」
検査結果は概ね良好だった。
心臓の大きさは肥大の様子も無く入院時に比べて普通サイズに戻りつつあったし、心電図も安定、心臓の健康状態をチェックするBNP値も大幅に低下、糖尿の数値も許容内、悪玉コレステロールの値も規定値以下に押さえられていた。降圧利尿剤の効き目もあって腎機能の働きも安定しており、服薬の種類と量も変わらなかった。投薬は六カ月後に行う心エコーとカテーテル検査の結果が良ければ見直しを行うとのことだった。沢木はホッと胸をなでおろした。
診察の終わりがけに不安になっていた五十肩について聞いてみた。が、医師は強く否定した。
「五十肩と心筋梗塞の関連は全く有りません。術後の後遺症にも関係無いです。もし、酷いようで大変なら専門の先生に診て貰って下さい。但し、温泉療法と漢方くらいしか対処法は無い筈ですよ。痛みを和らげる薬の服用は出来ませんから、肩の体操をするなどなるべく運動で肩を動かして症状が治まるのを待つしか無いでしょう」
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