翻る社旗の下で

相良武有

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第四章 矜持

第44話 英二と裕美、何年振りかで再会する

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「東京支店から札幌支店へ転任された高木英二さんですね」
「ええ、そうです。君は確か、人事部へ配属された、ええっと・・・」
「佐々木良治です。貴方とは筑波で工場実習が一緒でした」
「あ、そうそう、そうでしたね。で、ずうっと人事畑ですか?」
「はい、そうです。貴方は札幌支店の後、本社の社長室に勤務されたのでしたね」
「そうですね。でも、途中で退職した人間の、人生の回顧話など、取り立てて記事に載せることもないでしょうに・・・」
「まあそう仰らずに、退職された当時の模様などをざっくばらんに伺わせて下さい。活字にする時には決してご迷惑の掛からぬよう配慮しますので」
「本屋に並べるのですか?」
「いえ。住所の判っている会員とその家族に配るだけです。同期会の常任幹事で印刷屋を継いでいる林さんが費用を持ってくれると言うので、急に回顧録の話が出て来たのです。林さんを憶えていますか?」
「さあ、どんな人だったかなあ」
「経理部に居ました。営業の貴方とはご縁が無かったでしょうかね」
「憶えていませんね。このところ物忘れが酷くなりました」
「私もそうです。或いは皆そうかも知れません。いつの間にか憶えておきたい話を選り分けて、嫌な思い出は次々に忘れてしまう。だから、同期会でもこの頃は皆、愉しかった話しかしなくなりました」
「不思議なものですね」
「高木さんはどうですか?」
「僕は嫌なことばかり憶えていますよ。だから同期会に誘われても、なかなか腰が重くて行けません」
「それでは、当時のことをお話し願えますか」

 朝からしんしんと底冷えのする一日だったが、とうとう午後四時過ぎになって雪が降り出した。今月に入って二度目の雪であった。午後八時前に会社を出た時には、雪は積もるという状況には見えなかったが、生まれ育った船形山の麓まで来ると、辺り一面真っ白であった。県境である山間の町を過ぎた辺りから雪は急に勢いを増して間断無く降り続いていた。
 故郷のこの街は歴史と文化の香りに包まれた山紫水明の一大観光都市であったが、四方を山に囲まれて夏暑く冬寒い気候穏やかならざる盆地の街だった。
英二の実家は船形山の南麓に建ち並ぶ閑静な住宅街の一角に在った。
 英二は冷たい雪の降り頻る中を急いで路を行こうとしたが、靴底にくっつく雪の所為で足は思うようには進まなかった。
 この路の眺望も随分と様変わりしたなあ、眼を上げた英二は久し振りの実家への道をそんな思いを抱いてゆっくりと歩いた。嘗ては通りを挟んで、八百屋、魚屋、米穀店、乾物屋、うどん屋、駄菓子屋、酒店、自転車店、銭湯、理髪店、タバコ屋、文房具店、花屋等が軒を連ねて人の往来も頻繁だったが、今はもうすっかり寂れてしまっている。マンションに建て変ったり、コンビニや小さな食品スーパーが出来たりして、残っているのは酒店とうどん屋と理髪店ぐらいのものであった。新しく出来たらしい居酒屋やスナックも二、三軒仄かな灯りが見て取れた。
 居酒屋帰りと思われる男の二人連れが急ぎ足に英二を追い越して行った。
「こりゃ今夜は積もるぞ」
「うん、積もるな。然し、こんなに雪が降るのは何年振りだろうな?滅多に降らないのだが、な」
頭から肩にかけて白く雪を被った二人は、コートの衿を掻き合せ、おお寒!と背を丸めて遠ざかって行った。
 
 旧商店街の通りの角で、英二は靴底にくっついた雪を落とし、傘を傾けて積もった雪を払った。実家へ連なる坂道へ左折しようとしたその時、傾けた傘に何か柔らかい重いものが触った感じがした。
人に当ったかな、英二がはっとした時、向こうから詫びの言葉が発せられた。
「あっ、済みません」
若い女性だった。通りの角を曲がろうとして、丁度傾げた英二の傘にぶつかった様子だった。
傘を上げた英二に、女性はもう一度、斜め腰に頭を軽く下げて立ち去ろうとした、が、不意に足を止めて顔を上げた。
「裕美じゃないか!」
「高木さん!」
二人は殆ど同時に声を掛け合った。
裕美は傘を差さず、ショールを頭から被って首に巻いているだけであった。
「濡れるぞ、傘の中に入れ」
取り敢えず英二はそう言って、裕美に傘を差しかけた。
軽い驚きがあった。裕美に会うのは何年振りだろうか、二年前に嫁に行ったと実家の母から聞いている。こんな所で出逢うとは全く予期していなかった。
「さあ、遠慮せずに入れよ」
英二に促されて、裕美は身体を竦めるようにして傘の中に入って来た。少し酒の匂いがした。
「なんだ、酒を呑んで来たのか?」
「はい、少しだけ」
裕美は小さい声で答えた。ひとりで酒場から出て来た姿を英二に見られて恥じているように見えた。傘の中に入っても英二に身体が触れないように気を配って歩いている。
「里帰りか?」
「いえ」
暫く言葉を切ってから、裕美が言った。
「離婚して実家に帰っています」
英二は一瞬足を止めて裕美を見た。
えっ、どうして?と言いかける言葉を飲み込んだ。
裕美は伏し目がちに黙って歩いている。
そうか、決して幸せな結婚生活ではなかったのだな、英二は、少し頬が扱け、どこか影を帯びて淋しげに見える裕美の横顔を見やった。
 船形山の麓へ続く路はやや勾配の有る上り坂になっている。雪はしんしんと降り続いていた。二人は暫らく黙って歩いた。
「俺で力になれることがあったら何でも言って来いよ、な」
英二がそう言った時、裕美がつるりと雪に滑った。慌てて手を差し出した英二に縋りながら、裕美はまた滑った。英二は、傘を離して両手で裕美を掴まえ、上へ引上げるようにした。裕美の細い小さな身体が、長身の英二の腕の中へ入って来て、二人は抱き合う形になった。小柄だが裕美はずしりと重く、靴底に雪がくっついていた英二は、押された格好になってよろめき、今度は裕美が英二を支えた。
裕美が、ふっふっふっ、と笑った。英二も連れて笑った。他人が見れば、恋人同士が戯け合っているように見えたであろうが、夜の坂道には雪が降り頻っているだけで、人影は無かった。
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