翻る社旗の下で

相良武有

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第四章 矜持

第45話 英二と裕美、懐かしい思い出に心を和ませる

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 二人が最後に逢ったのは、英二が東京へ赴任した二年目の正月休みに帰省した時だった。二人でこの街一番の花街にある守護神社へ「おけら参り」に出かけた大晦日の晩だった。
 初めての「おけら参り」を裕美は大変面白がった。「おけら灯篭」に移されている「おけら火」を竹の繊維で出来た「吉兆縄」に移し、途中で火を消さないようにぐるぐる回しながら、二人は船形山の麓の自分達の家まで持ち帰った。そして、その「おけら火」は神棚の灯明につけ、元旦の大福茶や雑煮の火種として使って、一年の無事息災を願ったのだった。英二の母は最後に燃え残った火縄を「火伏せのお守り」として、台所に祀っていた。
あの大晦日の夜の街は喧しく賑々しく、騒々しかった。酔って群れている傍若無人の若者達や慎ましやかさを欠いた十代の男女の無節操な振る舞い、パチンコ店やゲームセンター等から発せられる騒音、前へ歩くことさえ遅々として進まない夥しい人の群、そんな中で二人は除夜の鐘を耳にしつつ、新年を迎える清新な気分に浸り、神頼みの僥倖をも信じる気分だった。

 英二の胸に懐かしい思い出が拡がった。英二が東京から札幌へ転勤したのは、その年が明けた陽春四月である。それからの時の経過が、今、裕美と出逢って、一度に縮まった気がした。
「人生有為転変、冬の後には春が来るさ」
傘を拾って裕美に差し掛けながら、英二は元気付けるように言った。昔懐かしい温かい感情が胸を浸した。
「高木さんは、ご結婚は?」
「おいおい、その高木さんと言うのは止めてくれよ。何だか他人行儀でいかん、昔のように英二さんで良いよ」
真実にそれで良いの?という表情で裕美は英二を見上げ、それまで努めて身体を避けるようだった素振りを止めて、傘の中で身を寄せて来た。
「うん、結婚は未だだ」
「でも、恋人は居るのでしょう」
「まあな、婚約者は居るよ」
「そう、それはおめでとうございます」
それが、それ程めでたくも無いんだよなぁ、言葉にはしなかったが、英二は胸のうちで呟いた。
「では、ここで」
裕美が突然、言った。
坂を上り切った所で路は三叉路になっている。真直ぐ行けば船形山へ登る石段に突き当たり、右へ行くと英二の実家が在る。裕美の家は左折して数十メートル行ったところである。
「家まで送って行ってやるよ、濡れるぞ」
「いえ、此処で結構です、直ぐ其処ですから」
「そうか、じゃな」
「有難うございました。お逢い出来て嬉しかったです」
英二がもう一言何か言おうとした時、裕美は身を翻すように降り頻る雪の中へ駆け出し、その姿は直ぐに白い闇に消えて見えなくなった。一瞬、成熟した女のなまめかしい香りが漂った。
 英二は裕美と何年振りかで出逢ったことで、胸の中にぽうっと灯が燈った気がした。
婚約者の玲奈と居る時に感じる背伸びするような、気負い立つような、気詰まるような張り詰めた感情が、裕美との間には無かったように思われた。
裕美は優しく柔らかく円やかで、刺々しさなどまるで無かった気がする。英二の胸に裕美を懐かしむ思いが次第に甦って来た。

 離婚して実家に帰った裕美は、眼と鼻の先に在る英二の実家の前を通る度に、嘗て英二と過ごした懐かしいあの頃の日々が否応無しに思い出されて、胸がキュンと締め付けられた。
一度母親に英二の消息を訊ねたことがあった。
「お母さん、高木さんのことを覚えている?」
「高木さん?」
「うん。高木英二さん」
その名を口にするのは何年振りだろうか、裕美は少し感慨に浸った。
「ほら、学生の頃、家が同じ方向だったので、夜に何度か、タクシーで私を送って来てくれた高木さんよ」
「ああ、家に上がってお茶でもどうぞ、とお勧めしても、一度もお上がりにならなかったあの方ね」
「そう。もう遅いですからと言って、絶対に上がらなかったわね、あの人」
母は頷いたが、不審そうな顔をした。
「その高木さんがどうかしたの?」
「いや、もう結婚されて子供さんも居られるのかなあと、ふと思って」
「おやおや、何を言い出すことかと思ったら・・・。でも、あなた、あの人と一緒になれれば良かったのにね。あの人好きだったのでしょう?」
唐突な母の言葉に、裕美は一瞬、胸の動悸が高鳴るのを覚えた。
自分の娘のことだもの、それくらいのことは解っていましたよ、と母はさらりと言った。
「然しねえ、あなたはやっと看護師になったばかりだったし、あの方は何日戻れるとも知れない札幌へ転勤になられるし、どうしようも無かったのよね」
でも考えてみれば、東京から札幌或いはその他の地方へも転々と赴任されているとしたら、ひょっとしたら、未だ結婚されていないかもしれないね、と母は独り言ちた。
裕美は黙って活花の鋏を使ったが、胸の奥で何かが鋭くはじけた気がした。そして、息を静めようとして手を止め、花をじっと見やった。
「その枝、切りなさい。その方がすっきりするわよ」
裕美の思いを断ち切るように、母は少し鋭い口調で、小さな枝の一本を指差した。
それから、翳って来た窓の外を眺めて、母は気忙しげに部屋を出て行った。
裕美は手を止めたまま、暫し、もう五年も昔になる英二とのことに、心を泳がせた。
 裕美は英二の不在を思うに連れて、己の孤独と寂しさが日増しに募り、その寂寥を紛らす為に酒を嗜むようになった。飲んで酔いが回ると裕美の心は少し和んだ。
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