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第一部:江戸時代「供養の沼」
しおりを挟む館の離れにて、おりんは鏡台の前に座っていた。
生まれて初めての白粉に紅を塗った、白装束の美しい女が自分だとはとても思えなかった。
「これで、いいの」
何度も繰り返したその言葉を、再び己に言い聞かせた。
豊作祈願を願い供養の沼へと捧げられるのは、自分にとっては名誉なことだ。
自分を拾って、よそ者であるのに優しくしてくれたこの村に命一つで恩を返せるのであれば安いものだ。
ここに拾われる以前、奉公先で受けた地獄のような仕打ちを思い出せばこの村での生活はまさに極楽といえた。
他の村娘たちが犠牲にならなくて良かった。自分はそのために村に来たんだ。
ようやく心が落ち着いて、布団に入ろうと思った時だった。
離れの扉を誰かが開けた。
振り返ってそこに立つ男に、おりんは目を見開いた。
「左之助、さま」
左之助と呼ばれた男は唇の前に指を添え、おりんに口を噤ませる。
そうして音もなく近づくと、彼女の肩を持って言うのだ。
「おりん。逃げよう」
その言葉を聞いた瞬間。
おりんは凍ったように動けなくなった。
左之助はおりんを救い、この村に招いてくれた人だ。
奉公していた店の奥方に手酷く打たれ、小雪降る中で外に放り出され震えていたおりんを彼が店に話をつけて、村に招待してくれたのだ。
最初に二人にあったのは哀れな娘を助けたいという正義感と、救われた恩に報いたいという思いであった。
しかし共に過ごしていくうちにそれが男女の情になっていくのに時間はかからなかった。
村人がおりんを沼に送ることに賛成する中、最後まで是と言わなかったのが左之助であった。
「出来ません。これは、おりんの役目です」
彼の心は知っていた。
だからこそ左之助の手を取るわけにはいかなかった。
ほんのわずかな間でも、左之助の心に入れたことがおりんにとっては至上の幸いだ。だからそれ以上を望むつもりはない。
「そんな事を言わないでくれ。俺はおりんがいなければ生きていけない。神に恨まれようと、お前を離さない」
そのはずだった。
だが自分の言葉に涙を流す左之助の顔が、自分を太い腕の中に抱きしめるその胸の熱が、次第におりんから覚悟と理性を奪っていく。
今まで温もりを知らなかった女が、温もりを知った時、それに執着してしまうのは仕方のない事だった。
離れを抜けた二人は、手に手を取って森を抜けた。
全財産をその身に背負った左之助は、息を荒くして辺りを見回す。
「追手は来てないな。あと少しでここを出られる。落ち着いたら、所帯を持とう。俺たちは幸せになるんだ」
彼が一言、一言、未来について話すたびにおりんの心は軽く、明るく、ふわふわとしていく。肉体の疲労などとうに忘れてしまう程に。
村の外で物を売る左之助にとって、村を囲むこの森は庭のようなものだ。他の村人に気づかれずに抜ける道を彼は知っているのだろう。
いつか二人だけで生きて、笑い合い、左之助との子を産む。そんな幸せをおりんは想像し浸っていた。
しかしそれは叶うことはなかった。
二人の目の前には、夜霧に覆われた沼が広がっていた。
じっとりとした霧の粒は二人の着物を濡らし、まるで水の中にいるようだ。
「なんで……!? そんなはずはない! だって、供養の沼から、離れていたはずなのに!」
左之助は頭を抱えていた。
彼が目指していた出口は沼とは正反対の場所である。間違えるわけがないのだ。
だがおりんはわかっていた。
彼女は霧の先の景色が見えていた。
そこには女達が待っていた。
自分と同じ服を纏った、色の白い女達だ。
女達は一列に並びながら着物と同じその真白い顔をおりんに向けている。離れているはずなのに、彼女たちの顔がおりんの目にはハッキリと映っていた。
落ち窪んだ洞のような目、とぽかりと開いた口からはどす黒い泥がダラダラと溢れている。
彼女たちは同じ言葉を彼女に伝えていた。
「おまえもこい」
おりんの頭はすぅ、と冷え切っていく。
ああ自分は夢を見ていたのだ。
甘く幸せな夢を。
だがもうそれも終わりだ。
――今すぐに彼女たちの元に向かわなくては。
「――おりん? おりん! 待ってくれ!」
ぴちゃり
左之助の制止が聞かず、おりんは沼に足を踏み入れた。
ぬかるんだ泥が彼女の足を包む。それでもおりんは躓くことなく進み続ける。
その背を左之助が追う。その長い手があればすぐに彼女の体を抱きとめられるはずだった。しかし彼の手は空を切るばかりで、いつまでもおりんの背に届かなかった。
「おりいいいいいいん」
前に進めば進むほど、左之助の体は泥の中に沈む。
いつの間にか彼はおりんを見上げており、下半身が泥に包まれていた。だが左之助はそんな自身の危機に気づかず、必死におりんに手を伸ばし続ける。
その手がようやくおりんの足首を掴んだ時には、左之助の顔は全て沼の泥に沈んでいた。
おりんの体も泥の中に沈んでいった。
音もなく、瞬く間の出来事であった。
二人の沈んだ泥から、次第に泡が溢れてきた。その泡は次第に多くなっていき、黒ずんで汚れた水を吐き出した。
汚れた水は次第に吹き出していって、沼から溢れて辺りを埋め尽くす。
それはすぐに村へと溢れ、作物も家畜も、人々も飲み込んでいった。
後に残されたのは、人身御供の因習があったとされる沼だけだった。
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