君に恋したあの頃の夏

友利奈緒

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第一章 放課後の約束

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 学校終わりの放課後。

 オレンジ色に染まりかけた校舎の廊下を、僕はいつものようにバスケ部の部室へ向かって歩いていた。

 体育館からはボールの弾む音と、掛け声が聞こえてくる。

 今日も、普通の一日。

 そう思っていた。

 「ねえ、晴也くん」

 背後から、澄んだ声がかかった。

 振り向いた瞬間、廊下の空気が一段階明るくなる。

 そこに立っていたのは、クラスの人気ナンバーワン――望月春奈ちゃん。

 肩まで伸びた髪が夕日に透けて、やわらかく光っている。

 男子からの告白は数知れず。それを全部やんわり断ってきたという、ある意味で伝説の存在。そして、僕が所属するバスケ部のマネージャーでもある。

 さらに言えば――

 席は、僕の隣。

 それだけで、僕はクラス男子の無言の敵だ。

 正直、視線は毎日痛い。

 でも、いちいち気にしていたらやっていけない。だから僕は、適当に謝り、適当に受け流している。

 「部活終わりって、なんか用事ある?」

 春奈ちゃんは、少し遠慮がちにそう聞いてきた。

 心なしか、頬がほんの少し赤い。

 「空いてるけど。どうしたの?」

 僕がそう答えると、彼女は一度だけ深呼吸してから言った。

 「もし晴也くんがよかったら……将棋、教えてくれないかな?」

 「……将棋?」

 意外すぎて、変な声が出た。

 「うん。お父さんがね、将棋盤と駒のセット買ってくれたの。でもルールがいまいちわからなくて……それで、ちょっと興味あって」

 そこで彼女は少し視線を逸らし、小さな声で続ける。

 「女流棋士、ってあるでしょ? ああいうの……目指してみようかなって」

 廊下の時間が、止まった気がした。

 バスケ部のマネージャーで、クラスのアイドルで、男子全員の憧れの存在が。

 将棋。

 しかも、女流棋士。

 「……本気?」

 思わず聞いていた。

 春奈ちゃんは、まっすぐ僕を見る。

 「うん。本気。」

 その目は、冗談を言っている人のそれじゃなかった。

 僕は小さく笑う。

 「べつにいいよ。教えるくらい。カードゲームもついでに教える?」

 「カードゲーム?」

 「将棋は読みと駆け引き。カードゲームは瞬発力と構築力。どっちも強くなれるよ」

 自分でも、少し得意げだったかもしれない。

 すると春奈ちゃんは、ぱっと顔を明るくした。

 「ありがとう……! じゃあさ、今日――」

 そこで彼女は一瞬迷ってから、思い切ったように言った。

 「部活終わったら、うち来る? お泊まり会のついでに、将棋講習!」

 ――お泊まり。

 一瞬、脳が処理を拒否する。

 「え、いや、え?」

 「大丈夫! 私の部屋別だし! お母さんにも言ってあるから!」

 言ってあるのかよ。

 どこまで話が進んでるんだ。

 けれど彼女は本気だった。

 将棋に対しても、この約束に対しても。

 僕は観念したように肩をすくめる。

 「……わかったよ。ちゃんと教えるからな」

 「うん!」

 その笑顔は、体育館の照明よりずっとまぶしかった。

 ◇

 そして部活。

 パスを受け、3ポイントラインの外へ。

 跳ぶ。

 空中で、時間が止まる。

 リリース。

 スパッ。

 「ナイスシュート!」

 声が飛ぶ。

 「晴也くん、かっこいい!」

 春奈ちゃんの声が、はっきり聞こえた。

 先輩が肩を叩く。

 「相変わらず滞空時間長ぇな。空中で一回止まってんじゃねぇの?」

 笑いが起こる。

 だけど僕の意識は、別のことでいっぱいだった。

 ――今夜。

 将棋盤を挟んで、春奈ちゃんと向かい合う。

 それはたぶん、バスケの試合よりも緊張する。

 このとき、僕はまだ知らなかった。

 この放課後の約束が。

 ただの将棋講習なんかじゃなくて。

 僕の人生を、本気で動かす第一手になるなんて。

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