君に恋したあの頃の夏

友利奈緒

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第二章 将棋盤の向こう側

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 部活が終わった頃には、空はすっかり茜色に染まっていた。

 「じゃ、行こっか」

 そう言って自然に僕の隣を歩き出す春奈ちゃん。

 学校から彼女の家までは歩いて十五分ほど。

 距離としては短いはずなのに、今日は妙に長く感じる。

 周囲の視線も、いつもより刺さる気がした。

 「……緊張してる?」

 春奈ちゃんが小さく笑いながら聞いてくる。

 「してない」

 即答したけど、声が少し上ずったのは自覚している。

 彼女は楽しそうにくすっと笑った。

 「顔に出てるよ?」

 ◇

 望月家は、思っていたよりも落ち着いた雰囲気の一軒家だった。

 「ただいまー!」

 玄関に響く明るい声。

 「おかえり、春奈。……あら、その子が?」

 現れたのは優しそうなお母さんだった。

 「はい、晴也くんです。将棋教えてくれるの」

 「は、はじめまして……」

 ぺこりと頭を下げると、お母さんはにこやかに言った。

 「春奈がこんなに夢中になるなんて珍しいのよ。よろしくね」

 夢中。

 その言葉が、胸に残る。

 ◇

 春奈ちゃんの部屋は、意外とシンプルだった。

 机、本棚、ベッド、ぬいぐるみが少し。

 そして部屋の中央には――

 新品の将棋盤と駒。

 「これ!」

 彼女は嬉しそうに箱を開ける。

 木の香りがふわっと広がった。

 「……いい盤だな」

 思わず本音が漏れる。

 「晴也くん、嬉しそう」

 「いや、だって将棋盤ってさ、ちゃんとしたやつ触るとテンション上がるだろ」

 「ふふ、そういうの好きだよ」

 その何気ない一言に、心臓が跳ねる。

 僕は慌てて盤をセットし、駒を並べた。

 「まずはルールからな。駒の動き、覚えよう」

 ◇

 最初はぎこちなかった。

 歩の動きでさえ、「え、これだけ?」と驚く春奈ちゃん。

 でも、教えているうちに気づいた。

 飲み込みが、異常に早い。

 「角って、斜め全部行けるんだよね?」

 「そう」

 「じゃあ、この瞬間、この歩どかしたら王様取れるよね?」

 僕は一瞬、言葉を失った。

 詰みの筋を、ほぼ勘で見つけている。

 「……センスあるかもな」

 「ほんと?」

 彼女は目を輝かせる。

 その目は、バスケ部のマネージャーの時とは違う。

 獲物を見つけたみたいな、真剣な目。

 ◇

 一局目。

 もちろん僕が圧倒した。

 「うわぁ、王様逃げ場ない……」

 「詰みだな」

 「くやしい……」

 唇を噛む。

 本気で悔しそうだった。

 「ねえ、もう一回」

 声が少し低い。

 「今日は覚える日だろ?」

 「違う。今日は勝ちたい日」

 その言葉に、胸がざわつく。

 負けず嫌い。

 そして、本気。

 ――この子、本当に目指す気だ。

 ◇

 二局目。

 少しだけ本気を出した。

 それでも中盤までは互角。

 駒を動かすたびに距離が近くなる。

 手が触れそうになる。

 香車を打つ音が、やけに響く。

 「ねえ、晴也くん」

 「ん?」

 彼女は盤を見つめたまま言った。

 「私、将棋強くなりたい」

 静かな声。

 でも、真剣。

 「なんで?」

 少し間が空いて、彼女は笑った。

 「……好きな人に、かっこいいって思われたいから」

 ドクン、と心臓が鳴る。

 「それと」

 彼女はゆっくり顔を上げる。

 まっすぐ、僕を見る。

 「晴也くんみたいに、何かひとつ、本気で誇れるものが欲しいの」

 盤の上には、拮抗した局面。

 でも僕の思考は、完全に止まっていた。

 「晴也くんの将棋、好きだよ。すごく静かで、でも熱い」

 その瞬間。

 彼女の放った一手が、僕の王を追い詰めた。

 「……王手」

 僕は初めて、春奈ちゃんに本気で驚かされた。

 バスケのシュートよりも。

 どんな試合よりも。

 今、この将棋盤の向こう側にいる彼女が――

 一番、強く見えた。

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