君に恋したあの頃の夏

友利奈緒

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第三章 静かな夜と、本音の距離

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 将棋盤を片付けた頃には、時計はもう十一時を回っていた。

 「こんな時間までやっちゃったね」

 春奈ちゃんが笑う。

 「集中すると時間忘れるんだよ」

 「晴也くん、将棋してるとき、別人みたいだった」

 「別人?」

 「うん。普段はちょっと適当なのに」

 「ひどくない?」

 「でも、かっこよかったよ」

 その一言で、また鼓動が速くなる。

 ◇

 お風呂も済ませ、それぞれ部屋着に着替える。

 もちろん寝る場所は別――のはずなのに。

 「少しだけ、話さない?」

 春奈ちゃんはベッドの端に座りながら言った。

 僕は床に敷いてもらった布団の上に座る。

 窓の外には、静かな夜。

 部屋の明かりは少し落としてあって、柔らかい空気に包まれている。

 「ねえ、晴也くんってさ」

 「ん?」

 「なんでそんなに強くなろうとするの?」

 突然の質問だった。

 バスケも、将棋も。

 僕が無意識にやってきたこと。

 少し考えてから、答える。

 「……別に、誰かに認められたいとかじゃないよ」

 「うん」

 「ただ、負けるのが嫌いなだけ」

 本音だった。

 小さい頃から、負けるたびに悔しくて。

 だから、練習した。

 強くなるしかなかった。

 春奈ちゃんは静かに聞いている。

 「晴也くんはさ、ちゃんと“自分”を持ってるよね」

 「そんなことない」

 「あるよ」

 真っ直ぐな声だった。

 「私ね、今までずっと“望月春奈”でいることに慣れてきたの」

 「……どういう意味?」

 彼女は少し笑う。

 「みんなの前では明るくて、誰にでも優しくて、完璧な春奈ちゃん」

 その笑顔は、どこか寂しそうだった。

 「でもね、ほんとはちょっと違うの」

 夜の静けさの中で、彼女の声だけがはっきり響く。

 「負けず嫌いで、意地っ張りで、誰よりも悔しがるし……好きな人の前だと、めちゃくちゃ不器用」

 心臓が止まりそうになる。

 好きな人。

 その言葉が、やけに重い。

 「私、晴也くんと将棋してる時が、一番自分でいられる」

 視線が合う。

 逃げられない。

 「強いとか、かっこいいとか、そういうのもあるけど」

 彼女は少し照れたように笑う。

 「ただ、隣にいると安心するの」

 鼓動が、はっきり聞こえる。

 きっと彼女にも聞こえてる。

 「……俺でいいの?」

 思わず口に出た。

 「なにが?」

 「その、安心する相手」

 春奈ちゃんは少しだけ驚いた顔をして、それから優しく笑った。

 「晴也くんじゃなきゃ、嫌」

 部屋の空気が一段階、熱を帯びる。

 言葉が出ない。

 代わりに、彼女が小さく言った。

 「まだ、答えはいらないよ」

 「え?」

 「将棋と同じ。今はまだ、序盤だから」

 そう言って、ベッドから立ち上がる。

 「おやすみ、晴也くん」

 電気が消える。

 暗闇の中、僕は天井を見つめる。

 将棋の局面よりも、ずっと複雑だ。

 でも、ひとつだけわかる。

 今日のこの夜は――

 確実に、僕の心を一手動かした。

 それはチェックメイトじゃない。

 でも、もう逃げられない。

 静かな夜の中、僕は初めて思った。

 バスケでも将棋でもなく。

 この子の隣で、勝負してみたい、と。

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