小川

筧 みなみ

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小川

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ちっぽけな願いでした。
けれど、大切な願いでした。


小さかった私には、世界は優しかった。
だから、このままずっと同じ暮らしが続くのだと思っていた。

私の世界は、小さな小さな。
この家と、庭と、裏を流れる小川と。
それだけで、十分だった。

朝になると、お父さんは森へ行く。
戸口を出る背中は大きくて、
振り返ると、いつも笑っていた。

帰ってくると、獲物をかかげる。
私は走っていって、脚に抱きつく。
抱き上げられると、ぐらっとして、
空が近くなった。
うれしくて、声が勝手に大きくなる。

お母さんは、台所にいる。
鍋の音がして、水の音がして、
石けんの匂いがする。
後ろから抱きつくと、同じ匂いがした。

クルゥは、いつも私のそばにいた。
小さくて、歩くのが遅い。
だから、手をつなぐ。
落ちたらいけないから。

「だいじょうぶだよ」

そう言いながら、
私は何度も足元を見た。

裏の小川へ行くときは、必ずそうした。
小川は、お母さんに内緒だった。
行ってはいけないと、何度も言われていた。

だから、石を選ぶ。
ここは大丈夫。
ここは、だめ。

ちゃんと考えていた。

クラウスは、少し後ろを歩いていた。
手はつながない。
でも、先に行きすぎることはなかった。
私たちが止まると、クラウスも止まった。

石を投げるときは、
クラウスが先に水を見る。
深くないか。
流れていないか。
うなずくのを見てから、進んだ。

子ども三人では、遠くへは行けない。
だから、私の世界は、いつもここまでだった。

リズは、お姉ちゃんだ。
遠くの学校へ行っている。
大きな休日だけ、帰ってくる予定だった。

お母さんが、手紙を読む。
私は、文字が読めない。
でも、顔を見れば分かる。

その日は、少し笑っていた。
だから、リズは元気だと思った。
それで、十分だった。

近くに、他の家はない。
週に一度、馬車が来る。
その時間、私とクルゥは眠っている。

クラウスは、起きていることがあった。
窓のそばで、音を聞いていた。
私は、知らなかった。

雨の日は、外へ行けない。
お母さんのそばで、待つ。

卵と、粉と、砂糖。
混ざる音を、見ている。

クルゥは椅子に座って、
脚をぶらぶらさせている。
床には届かない。

数を数える。
途中で止まる。
指は、勝手に戻る。

「もういっかい」

そう言って、また最初から数えた。

クッキーは、甘かった。
ミルクは、冷たかった。

その日、お父さんは少し早く帰ってきた。
服は、雨で濡れていた。

「今日は早いな」

そう言うと、
私とクルゥは声を上げた。

お風呂を焚いた。
家の中が、少しあたたかくなった。

みんなで入った。
お父さんと、クラウスと、私。
あとから、お母さんとクルゥも来た。

狭かった。
肩が当たって、湯が揺れた。
でも、誰も出なかった。

お父さんの声は大きくて、
湯船が揺れた。
クラウスは端に座って、静かだった。

クルゥは数を数えた。
途中で止まった。
指は、やっぱり戻った。

お父さんは、一緒に数えた。
間違えても、戻らなかった。

お母さんは、それを見て笑った。

夜、同じ部屋で眠った。
クルゥは、すぐに寝た。
私は、その次だった。
クラウスは、最後まで起きていた。

お母さんの歌は、途中までしか覚えていない。

あの頃、私は、いつも眠かった。
夜のことは、あまり覚えていない。

私の世界は、小さな小さな。
この家と、庭と、裏を流れる小川と。
それだけだった。

そして、ある夜。
その世界は、音を立てずに、壊れはじめた。



「お姉ちゃん」

呼ばれて、顔を上げた。

目の前にいるのは、クラウスだった。
背が高くなっている。
声も、低い。

私は、すぐに分からなかった。
でも、少しして、思い出した。

あのとき、
お風呂の端に座っていた人だ。

小さかったクルゥは、もういなかった。

どうして忘れていたのかは、分からない。
ただ、胸の奥が、ゆっくり冷えていった。

「ここ、寒い?」

クラウスが言った。
私は、首を振った。

部屋を見回す。

クルゥは、棚の上に座っている。

それだけで、分かった気がした。

「前は、よく泣いてた」

そう言われて、笑おうとした。
うまくいかなかった。

少し間があって、私は聞いた。

「私、いつからここにいるの?」

クラウスは、すぐに答えなかった。
窓の外を見てから、言った。

「ずっとだよ」

それは、嘘じゃなかった。

ふっと、分かった。

私は、もう

声に出すと、崩れてしまいそうで、
口の中でだけ、確かめた。

涙が落ちた。
止まらなかった。

「……ごめんね」

誰に向けたのかは、分からない。

「謝らなくていい」

クラウスは、そう言った。
でも、昔みたいに、頭を撫でることはなかった。

私は、ここで笑っていた。
眠って、食べて、声を出していた。

それだけは、嘘じゃなかった。

「リズは?」

名前を出すと、空気が変わった。

「手紙は、届いてる」

それだけだった。

私は、頷いた。
それ以上、聞かなかった。

聞いてしまったら、
ここが、もっと壊れる気がした。

夜になると、眠くなった。
前と、同じだった。

私は、ここで、止まっている。



私は、まだ、あの小川を渡っていない。



リズ

手紙は、今日も書かなかった。

机の上に、紙は出してある。
封筒も、切手もある。
でも、文字は書かない。

書けば、届く。
届けば、向こうはまた一日を過ごす。
それが分かっているから、書けない。

夜は静かだ。
ここでは、風の音がしない。

誰かが「正しい選択だった」と言った。
何度も聞いた言葉だ。
そのたびに、うなずいた。

私は、正しい方を選んだのだと思う。
そう思わないと、ここに立てない。

それでも、夜に思い出す。

妹は、まだ小さい。
数が途中で止まる。
指は、勝手に戻る。

あの子は、ちゃんと気をつけていた。
それも、覚えている。

川の水位が上がっていたことも。
前の日に雨が降ったことも。
全部、分かっていた。

それでも、起きた。

私は、あの時間を選んだ。
選ばなかった時間は、戻らない。

誰かが幸せでいるなら、
それでいいと思う日もある。

でも、ときどき思う。

あの子が大人になって、
私より背が高くなって、
知らない場所へ行く姿を。

その時間は、もう来ない。

紙を一枚、折る。
何も書いていない。

封をする。

今日も、送るものはない。
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