令嬢から成り下がったメイドの分際で、侯爵様と目が合ってしまって

真好

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 ロゼッタさんが去り、ようやくクロエと二人きりになる。

 沈黙を埋めようと、気恥ずかしさを紛らわしながら「元気だった?」と声をかけようとした、その時だった。

 クロエがベッドから弾かれたように飛び起き、身を投じるような勢いで私にしがみついてきた。

「エルナ様……っ!」

 あまりの勢いに、痩せ細った私の体は大きくよろめく。

 折れてしまいそうなほど強く抱きしめられ、私は苦笑しながらなんとか踏みとどまる。

「クロエ、久しぶりね。元気そうで何よりだよ」

 問いかけるまでもなかった。私を抱きしめる腕の力強さが、彼女の健やかな成長を何よりも雄弁に物語っていたから。

「会いたかったです……ずっと、ずっと……!」

 私の耳元で溢れんばかりの涙声を絞り出すクロエ。
 その姿は、かつての屋敷にいた頃の、甘えん坊な子供そのものだった。

「相変わらず泣き虫なのね」

私は彼女の背にそっと腕を回し、あやすようにゆっくりと撫でた。

「今、いくつになったの?」
「……じゅう、ご歳、です……」

ひっくひっくとしゃくり上げながら、クロエが答える。

「十五歳か。そろそろ泣き虫は卒業してもいい年でしょ」
「泣かずにいられるはずありません! こんな……こんなに嬉しくて、悲しいのに……」

 次第に大きくなる彼女の鳴き声を受け止めながら、私は感慨にふけった。

 クロエはルミナス家で十歳の頃から働いていた子だ。
 十三歳の時に引っ越しの理由で屋敷を去り、別の奉公先へ向かったはずだが、まさか王都最高峰のベルンハルト家に再就職していたとは。
 やはり、世界は広いようで狭い。

 次第に私の胸元が彼女の涙で濡れ、じっとりと冷たくなってきた。
 このままだと服がずぶぬれになってしまうと思い、私は優しく彼女の肩を押し、懐から距離を置いた。

 それでも涙の止まらない彼女のために、私はポケットからハンカチを取り出し、その目元を丁寧に拭ってやる。
 クロエは拒むことなく、子供のようにされるがままになる。

「こうしていると……」私はぽつりと呟いた。「昔を思い出すわね」

「エルナさまぁ……」

 昔と変わらぬ声色で甘えてくるクロエ。
 背も伸び、体つきも少女から女性へと変わりつつあるが、その無邪気な性格だけは当時のままだった。

 それがたまらなく微笑ましく、そして、胸を締め付けられるほど懐かしい。

 自分がまだ令嬢だった頃の、平穏に満ちた記憶――。

(……いけないわ)

 私は強く首を振り、甘美な追憶を振り払う。
 そして、視線を鋭く改めてクロエを呼んだ。

「クロエ」
「はい、エルナ様」
「『様』をつけるのは、もうやめて。私はもう、令嬢ではないのだから」
「で、ですが……」
「やめなさい」

 断固とした拒絶を、自分自身に言い聞かせるように二度繰り返す。

「私はもう、あなたたちが仕えるべき貴族ではないの。ただの、エルナよ」

 しかし、クロエは不服そうな顔をした。
 それは、以前の屋敷でも彼女がよく見せていた懐かしい反抗の表情。

 彼女は意を決したように、どこか挑戦的な眼差しで私を見据える。

「嫌です」

「クロエ」

「嫌なものは嫌です!」
 クロエは言い切った。
「エルナ様の身分がどう変わろうと、世間でどう呼ばれようと、私の中では永遠に、世界で一番美しくて素敵な、私のエルナ様なんです!」

「……クロエ」

 複雑な感情を押し殺し、私はかつて主従だった頃のように、あえて厳格な表情を作ってみせる。

「わがままを言わないで。私をこれ以上に困らせるつもり?」

「……もちろん、人前では呼び捨てにします」

 クロエは、そこだけは譲歩するように言葉を継いだ。

「それくらいの分別はありますよ。私ももう十五歳なんですから。……でも、せめてこうして二人きりの時だけは、どうか、エルナ様と呼ばせてください」

 折れる様子のない彼女に、私は深い溜息をついた。

「困った子ね、本当に……」

 昔から一度言い出したら聞かないところがあった。その強情さは相変わらずで。

 令嬢だった頃なら身分を盾に屈服させることもできたが、今は同じ平民の身。
 彼女の意志を強引に捻じ曲げることなど、今の私には不可能だったし、何より無駄な抵抗だとすぐにわかった。

 私が諦めたように溜息をつくと、クロエはまた涙腺を緩ませて私を見つめた。

「あんなに高尚だった私のお嬢様が……」

 嘆きのような、独り言。

「こんなに痩せ細ってしまって。もちろん今も本当にお美しいですけれど、でも、あんまりです。可哀想なエルナ様……」

 可哀想、という言葉が、まるで遠い異国の誰かに向けられたもののような、他人事に聞こえてくる。

 私はただ苦笑するしかなかったが、それでもクロエとの再会が純粋に嬉しくて、口角を上げ続けた。

「……夕食が来ませんね」
 ふと我に返ったクロエが、部屋の入り口に目を向けた。

「部屋で待っていてください、エルナ様。私が厨房へ行って、食事を持ってきますから」

「いいえ、いいわ。自分で行くわよ」
「無理を仰らないでください!」

 立ち上がろうとした私を、クロエが強引に引き止める。
 ロゼッタが座っていた椅子の前まで私を連れていくと、半ば強制的に座らせた。

 抗おうとしたが、驚くほど力が弱っていた。
 今の私は、十五歳の彼女に抗うことすらできないのだ。

(……食べないと、本当にまずいかも)

 脳が危険信号を発していた。
 急激な空腹のせいか、視界がわずかに揺れ、めまいが私を襲う。

「じゃあ……お言葉に甘えようかしら」

 そう言って彼女に任せようとした瞬間、扉の向こうから控えめなノックの音が響いた。

「あ、ちょうど来たみたいです」

 クロエが弾んだ声でドアに歩み寄り、何気なくそれを開けた。

「……っ」

 次の瞬間、私とクロエは同時に凍りついた。

「こ……こ……」

 クロエが喉を震わせ、かろうじてその名を絞り出す。

「侯爵様……っ!?」

 そこには、食事の載った銀盆を自ら手に持った、アルフォンス様が立っていた。
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