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第2話 目を覚ませば、すべてが始まる前
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冷たい風が頬を撫でた。
その感触にレティシアは小さく息を呑む。
――痛くない。
あの夜、牢の中で眠るように意識を失った最後の感覚は、確かに血の温度だった。首筋を伝うぬるい液体。衛兵の刃が、何の慈悲もなく彼女を突き刺した。その瞬間、朦朧とした意識の中で思った。
「これで、やっと終われる」と。
なのに、今、彼女は呼吸をしている。
「……夢?」
かすかに目を開けると、木漏れ日が差し込む豪奢な寝室があった。淡いベージュのカーテン、繊細なレースの縁取り、そして――見覚えのある天蓋付きのベッド。そこは、彼女が“断罪の日”など訪れるはるか以前、幸福の中で暮らしていたアルヴィオン公爵家の自室だった。
「な、なぜ……ここに……?」
自分の手を見る。指輪は見当たらない。だが、血の跡も、処刑の痕もない。鏡の中に映る自分の顔は十七歳の頃のままだ。
喉がからからに乾きながら、レティシアは寝台を飛び降りた。
部屋の扉を開けると、待機していた侍女が驚いた顔をした。
「お嬢様!? お加減でも……?」
「リナ……あなた……生きてるの?」
リナ・フォーリア。断罪の後、主を庇って収監され、消息を絶った忠実な侍女。
だが、今の彼女は何事もなかったかのように、いつも通りレティシアの前で微笑んでいた。
「まあ、お嬢様たら。まだお目覚めになったばかりですのに、不思議なことをおっしゃいますのね。」
「……今日の日付を、教えてちょうだい。」
「え? ええと……王暦八百七十二年、五月十七日でございます。」
レティシアは息を飲んだ。
彼女が断罪されたのは、八百七十四年。――つまり、二年前に戻っている。
足元から震えが走る。
これは夢ではない。確かに、時間を巻き戻っているのだと、肌が理解していた。
「……神様が、哀れな令嬢に二度目の人生を与えたとでもいうの?」
小さく笑いが零れた。
けれどそれは安堵ではなく、苦い自嘲だった。
もう一度やり直せというのなら、今度は誰も信じない。愛など、もういらない。
“王太子妃”なんて肩書きなど燃やしてしまえばいい。
望むのはただ一つ――“自由”だ。
「リナ、今日は社交界のお茶会の予定は?」
「はい、マルセル伯爵夫人の午餐会が。殿下もご同席なさるとか……」
「そう……なら、ちょうどいいわ。」
あの時と同じ道を辿れば、また同じ結末に行き着く。
ならば、そこから“違う道”を選ぶだけ。
レティシアは衣装箱を開け、いつもの白いドレスの代わりに、濃いルビー色のドレスを引き抜いた。
「お嬢様、それは少々派手では――」
「今日は、目立ちたいの。」
その微笑みは、以前のどんな時よりも静かで強かった。
***
王城の大広間には、上流貴族たちが集っていた。金糸の装飾が施されたステンドグラスから光が差す。誰もがアレクシス殿下に視線を向けている。
「おや、レティシア嬢。ようこそ。」
気さくに声をかけてきたのは、王太子ではなく、第二王子カイルだった。
彼の声を聞いた瞬間、レティシアの心が微かに揺れた。
“真実を確かめに来た”――その時の言葉が脳裏をかすめる。
「久しぶりでございます、カイル殿下。」
「いつになく印象的な色をお召しですな。よくお似合いだ。」
「ありがとうございます。たまには殿下方の目にも留まる色を選びたくなりまして。」
意味深な微笑に、彼はわずかに眉を動かした。
その視線が、何かを見抜こうとしているようで胸がざわめいたが、今は表情を崩さない。
場が静まりかえったのは、アレクシスが入場した時だった。
完璧な微笑。誰もが羨む王太子。
だがレティシアにとって、その笑みは毒にも等しい。
「レティシア、よく来てくれたね。」
「ええ、殿下。お誘いありがとうございます。」
以前の彼女なら、少しも疑わずに微笑み返していただろう。
けれど今は違う。
“この男は、いずれ私を断罪する”。
その未来を知る彼女の瞳に、恐れはなかった。
「最近、君が体調を崩していると聞いたけど?」
「ご心配なく。むしろ今は、すこぶる気分が良いのです。」
「それは何よりだ。」
アレクシスが短く視線を逸らす。その先にはエミリアがいた。
その仕草だけで、彼女の中に小さな炎が灯る。
だが、燃やすのは復讐の炎だけ。嫉妬ではない。
「殿下、後ほどお話ししたいことがございます。少しお時間をよろしいでしょうか?」
「君から? 珍しいね。いいだろう、控え室で話そう。」
周囲の貴族たちが興味深げに囁き合うのを背に、二人は部屋を移した。
扉を閉めると、レティシアは静かに一礼した。
「今日、改めて申し上げます。アレクシス殿下。婚約の件、白紙に戻していただきたいのです。」
「……なんだと?」
驚きの色が彼の顔に浮かぶ。
「理由を聞こうか。」
「殿下がどれほど立派なお方かは、よく存じています。ですが私は、王太子妃として相応しい器ではございません。家のために、己を偽るのはもうやめます。」
「馬鹿な……君は何を――」
「これでお分かりになるでしょう? 殿下。私は貴方を愛しておりません。」
静寂が落ちた。
アレクシスの双眸が鋭く光る。
彼の誇り高い心が、初めて拒絶に触れてざらついた音を立てた。
「……誰かに吹き込まれたのか?」
「いいえ。自分で決めたことです。」
その間、レティシアの胸の奥では別の想念が渦巻いていた。
――あの時、私が沈黙していたから滅びた。
だから今度は、“言葉”で自分を守る。
「アレクシス殿下。私どもはこれからも臣民として貴方を敬いましょう。ですが、夫婦になる縁はありません。」
しばらく沈黙したのち、アレクシスが低く言った。
「……後悔するぞ。」
「いいえ。もう後悔は済ませました。」
その微笑みを見て、殿下の眉が僅かに動いた。
まるで彼女が、想定していた“従順で愚かな令嬢”ではなくなったことに気づいたかのように。
***
会場に戻ると、あちこちから視線が集まった。だがレティシアは構わず歩く。
一瞬、カイルと目が合った。彼は何も言わず、ただ穏やかに頷いた。
“この先の未来を変えたいなら、まずは己を変えろ”――
そう語るようなその瞳に勇気をもらい、レティシアは再び微笑んだ。
「さて――これで、もう一度人生をやり直せる。」
彼女の小さな呟きは、誰にも届かぬほど静かだったが、運命の歯車は確実に音を立て始めていた。
(続く)
その感触にレティシアは小さく息を呑む。
――痛くない。
あの夜、牢の中で眠るように意識を失った最後の感覚は、確かに血の温度だった。首筋を伝うぬるい液体。衛兵の刃が、何の慈悲もなく彼女を突き刺した。その瞬間、朦朧とした意識の中で思った。
「これで、やっと終われる」と。
なのに、今、彼女は呼吸をしている。
「……夢?」
かすかに目を開けると、木漏れ日が差し込む豪奢な寝室があった。淡いベージュのカーテン、繊細なレースの縁取り、そして――見覚えのある天蓋付きのベッド。そこは、彼女が“断罪の日”など訪れるはるか以前、幸福の中で暮らしていたアルヴィオン公爵家の自室だった。
「な、なぜ……ここに……?」
自分の手を見る。指輪は見当たらない。だが、血の跡も、処刑の痕もない。鏡の中に映る自分の顔は十七歳の頃のままだ。
喉がからからに乾きながら、レティシアは寝台を飛び降りた。
部屋の扉を開けると、待機していた侍女が驚いた顔をした。
「お嬢様!? お加減でも……?」
「リナ……あなた……生きてるの?」
リナ・フォーリア。断罪の後、主を庇って収監され、消息を絶った忠実な侍女。
だが、今の彼女は何事もなかったかのように、いつも通りレティシアの前で微笑んでいた。
「まあ、お嬢様たら。まだお目覚めになったばかりですのに、不思議なことをおっしゃいますのね。」
「……今日の日付を、教えてちょうだい。」
「え? ええと……王暦八百七十二年、五月十七日でございます。」
レティシアは息を飲んだ。
彼女が断罪されたのは、八百七十四年。――つまり、二年前に戻っている。
足元から震えが走る。
これは夢ではない。確かに、時間を巻き戻っているのだと、肌が理解していた。
「……神様が、哀れな令嬢に二度目の人生を与えたとでもいうの?」
小さく笑いが零れた。
けれどそれは安堵ではなく、苦い自嘲だった。
もう一度やり直せというのなら、今度は誰も信じない。愛など、もういらない。
“王太子妃”なんて肩書きなど燃やしてしまえばいい。
望むのはただ一つ――“自由”だ。
「リナ、今日は社交界のお茶会の予定は?」
「はい、マルセル伯爵夫人の午餐会が。殿下もご同席なさるとか……」
「そう……なら、ちょうどいいわ。」
あの時と同じ道を辿れば、また同じ結末に行き着く。
ならば、そこから“違う道”を選ぶだけ。
レティシアは衣装箱を開け、いつもの白いドレスの代わりに、濃いルビー色のドレスを引き抜いた。
「お嬢様、それは少々派手では――」
「今日は、目立ちたいの。」
その微笑みは、以前のどんな時よりも静かで強かった。
***
王城の大広間には、上流貴族たちが集っていた。金糸の装飾が施されたステンドグラスから光が差す。誰もがアレクシス殿下に視線を向けている。
「おや、レティシア嬢。ようこそ。」
気さくに声をかけてきたのは、王太子ではなく、第二王子カイルだった。
彼の声を聞いた瞬間、レティシアの心が微かに揺れた。
“真実を確かめに来た”――その時の言葉が脳裏をかすめる。
「久しぶりでございます、カイル殿下。」
「いつになく印象的な色をお召しですな。よくお似合いだ。」
「ありがとうございます。たまには殿下方の目にも留まる色を選びたくなりまして。」
意味深な微笑に、彼はわずかに眉を動かした。
その視線が、何かを見抜こうとしているようで胸がざわめいたが、今は表情を崩さない。
場が静まりかえったのは、アレクシスが入場した時だった。
完璧な微笑。誰もが羨む王太子。
だがレティシアにとって、その笑みは毒にも等しい。
「レティシア、よく来てくれたね。」
「ええ、殿下。お誘いありがとうございます。」
以前の彼女なら、少しも疑わずに微笑み返していただろう。
けれど今は違う。
“この男は、いずれ私を断罪する”。
その未来を知る彼女の瞳に、恐れはなかった。
「最近、君が体調を崩していると聞いたけど?」
「ご心配なく。むしろ今は、すこぶる気分が良いのです。」
「それは何よりだ。」
アレクシスが短く視線を逸らす。その先にはエミリアがいた。
その仕草だけで、彼女の中に小さな炎が灯る。
だが、燃やすのは復讐の炎だけ。嫉妬ではない。
「殿下、後ほどお話ししたいことがございます。少しお時間をよろしいでしょうか?」
「君から? 珍しいね。いいだろう、控え室で話そう。」
周囲の貴族たちが興味深げに囁き合うのを背に、二人は部屋を移した。
扉を閉めると、レティシアは静かに一礼した。
「今日、改めて申し上げます。アレクシス殿下。婚約の件、白紙に戻していただきたいのです。」
「……なんだと?」
驚きの色が彼の顔に浮かぶ。
「理由を聞こうか。」
「殿下がどれほど立派なお方かは、よく存じています。ですが私は、王太子妃として相応しい器ではございません。家のために、己を偽るのはもうやめます。」
「馬鹿な……君は何を――」
「これでお分かりになるでしょう? 殿下。私は貴方を愛しておりません。」
静寂が落ちた。
アレクシスの双眸が鋭く光る。
彼の誇り高い心が、初めて拒絶に触れてざらついた音を立てた。
「……誰かに吹き込まれたのか?」
「いいえ。自分で決めたことです。」
その間、レティシアの胸の奥では別の想念が渦巻いていた。
――あの時、私が沈黙していたから滅びた。
だから今度は、“言葉”で自分を守る。
「アレクシス殿下。私どもはこれからも臣民として貴方を敬いましょう。ですが、夫婦になる縁はありません。」
しばらく沈黙したのち、アレクシスが低く言った。
「……後悔するぞ。」
「いいえ。もう後悔は済ませました。」
その微笑みを見て、殿下の眉が僅かに動いた。
まるで彼女が、想定していた“従順で愚かな令嬢”ではなくなったことに気づいたかのように。
***
会場に戻ると、あちこちから視線が集まった。だがレティシアは構わず歩く。
一瞬、カイルと目が合った。彼は何も言わず、ただ穏やかに頷いた。
“この先の未来を変えたいなら、まずは己を変えろ”――
そう語るようなその瞳に勇気をもらい、レティシアは再び微笑んだ。
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