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第1話 婚約破棄の宣告
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冬の王宮は静寂に包まれていた。高い窓から注ぎ込む光は青白く、深紅のカーテンの上を淡く照らしている。舞踏会の準備が進む大広間の片隅に、リシェル・グレイス侯爵令嬢は立っていた。
手に持つ扇の先が微かに震える。だが、その表情にはわずかな揺らぎもない。長い睫毛の影が、白い頬に落ちている。
「リシェル・グレイス。今日をもって、我らの婚約を破棄する」
朗々と響いた王太子・エドワードの声は、場の空気を切り裂いた。楽団の手が止まり、貴族たちが息を呑む。誰もが驚いたように二人を見つめていた。
リシェルは、その瞬間まで薄々、この日が来ることを悟っていた。
彼が最近、妹のミリアに向ける視線を知っていたからだ。幼いころから、完璧と讃えられ、婚約者としての役割をこなしてきた彼女は、王太子の隣に立つことが義務のように感じていた。
けれど、愛されていないこともずっと感じていた。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか、殿下」
リシェルの声は静かだった。わずかも震えず、会場の誰よりも落ち着いている。
エドワードは軽く眉をひそめた後、誇らしげに口を開いた。
「おまえは冷たい。愛のない女だ。いつも冷静に義務をこなし、俺への想いも感じられぬ。婚約者としてふさわしくない。俺は真に心を通わせられる人と添いたい」
背後で、刺すような沈黙の中、誰かが小さく笑う声がした。
ミリアだ。
薄桃色のドレスに包まれた若い妹は、演技めいた涙をその大きな瞳に浮かべながら、悲しげに頭を下げている。まるで、巻き込まれた可哀想な存在を装うように。
リシェルは背筋を伸ばし、微笑んだ。
会場中が凍りつくほどの冷静な微笑。
「……そうですか。殿下のお望みでしたら、異論はございません」
ざわ、と人の波が揺れた。婚約破棄を言い渡されたにも関わらず、この女は泣かない。恥をかかされても取り乱さない。それが逆に、彼らの心をざらつかせた。
「そんな態度だ。おまえはいつもそうだ! 他人のように遠い。ミリアのような真心を持てぬのか!」
エドワードの声が高く響く。
リシェルはゆっくりと視線を上げた。
「真心……それは、隣にいる方を踏み台にしてでも、自分が愛されようとする心でしょうか。もしそうであれば、わたくしには生涯、持ち合わせませんわ」
ミリアの顔が一瞬、引きつる。周囲の視線が一斉に妹へと向かう。
エドワードは何かを言いかけたが、リシェルは静かに礼をして歩み出た。
「殿下、これまでありがとうございました。どうか末永くお幸せに」
会場の扉に向かって進むリシェルの背中に、誰かの囁きが聞こえた。
“負け犬令嬢”
“あれが噂の冷たい女か”
“可哀想に”
それでも彼女は立ち止まらなかった。かかとの音だけが静まり返った広間に響く。
だが、そのとき——。
「待ちなさい」
沈んだ広間に低く落ちる、冷たい声。
誰も見たことのない形相で、第二王子アーロンが歩み出てきた。黒い髪が光を吸い込み、鋭い金の瞳が獲物を見据える狼のように輝いている。
「おもしろいことをしてくれたな、兄上」
「アーロン、これは我らの——」
「兄上の“恋愛ごっこ”など興味はない。ただ、王太子としてあまりに愚かだと思ってな」
ざわめきが広がる。アーロン王子はリシェルの前に立ちはだかり、そっとその手を取った。
「殿下っ……! な、何を——」
「この婚約破棄、正式な手続きを経ていない。王家に提出した婚約証書にも、破棄のための合意はない。よって現時点でリシェル・グレイスは王家に連なる存在だ。つまり、兄上、貴殿は婚約者に公の場で不名誉を与えた。これは不敬にも等しい」
一瞬にして空気が凍りついた。
エドワードが立場を取り繕うように声を荒げる。
「なんだと!? そんな——」
「法を軽んじるのは勝手だが、王族としての品位を忘れるな」
アーロンの声は冷えきった鋼のようだった。
リシェルは思わず見上げた。こんなふうに彼と向かい合うのは初めてだ。
懐かしい記憶がよぎる。幼いころ、城の庭園で隅に咲いた花を「これは君のようだ」と微笑んで渡してくれた少年がいた。その横顔が、今ここにいるアーロンと重なる。
「アーロン殿下……」
「君には、俺が必要だろう?」
リシェルは一瞬、言葉を失った。会場中が息を呑む。
そのままアーロンは、彼女の肩を抱きながら言葉を続けた。
「この場で君を守る。王太子がくだす無礼な処分など、俺が無効にしよう。今日からは、俺の庇護下に入ってもらう」
低い声は断固としていた。まるで命令のように。
エドワードが何か言い返そうとするが、周囲の貴族がすでにざわめきを抑えられない。
「第二王子が……」「なんという展開だ」「これは王位継承争いにも関わるぞ」
その囁きが次第に渦となり、広間を満たしていった。
リシェルは深く頭を下げた。
「ありがとうございます。ですが……わたくしは、誰の保護も不要です。破棄されたのなら、ただ自分の道を歩くだけですから」
その凛とした声は、小さく震えていた。心の底のわずかな痛みを押し殺しながら。
アーロンはその肩を軽く掴み、そっと囁く。
「だが君の道は、ひとりで進むにはあまりにも冷たい」
扉の外では雪が降り始めていた。
白い結晶がゆっくりと舞い、王城の庭を包み込む。
リシェルは一歩を踏み出す。背後から、アーロンの低い足音がついてきた。
遠くで、エドワードが叫ぶ声が微かに響く。
「待て、リシェル! おまえは俺の……!」
彼女は振り返らない。
今、その声が何よりも虚ろに聞こえた。
扉が静かに閉まる音が響いたとき、リシェルの中で何かが確かに終わった。
そして、終わりと同じくらい静かに、新しい何かが動き出した。
続く
手に持つ扇の先が微かに震える。だが、その表情にはわずかな揺らぎもない。長い睫毛の影が、白い頬に落ちている。
「リシェル・グレイス。今日をもって、我らの婚約を破棄する」
朗々と響いた王太子・エドワードの声は、場の空気を切り裂いた。楽団の手が止まり、貴族たちが息を呑む。誰もが驚いたように二人を見つめていた。
リシェルは、その瞬間まで薄々、この日が来ることを悟っていた。
彼が最近、妹のミリアに向ける視線を知っていたからだ。幼いころから、完璧と讃えられ、婚約者としての役割をこなしてきた彼女は、王太子の隣に立つことが義務のように感じていた。
けれど、愛されていないこともずっと感じていた。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか、殿下」
リシェルの声は静かだった。わずかも震えず、会場の誰よりも落ち着いている。
エドワードは軽く眉をひそめた後、誇らしげに口を開いた。
「おまえは冷たい。愛のない女だ。いつも冷静に義務をこなし、俺への想いも感じられぬ。婚約者としてふさわしくない。俺は真に心を通わせられる人と添いたい」
背後で、刺すような沈黙の中、誰かが小さく笑う声がした。
ミリアだ。
薄桃色のドレスに包まれた若い妹は、演技めいた涙をその大きな瞳に浮かべながら、悲しげに頭を下げている。まるで、巻き込まれた可哀想な存在を装うように。
リシェルは背筋を伸ばし、微笑んだ。
会場中が凍りつくほどの冷静な微笑。
「……そうですか。殿下のお望みでしたら、異論はございません」
ざわ、と人の波が揺れた。婚約破棄を言い渡されたにも関わらず、この女は泣かない。恥をかかされても取り乱さない。それが逆に、彼らの心をざらつかせた。
「そんな態度だ。おまえはいつもそうだ! 他人のように遠い。ミリアのような真心を持てぬのか!」
エドワードの声が高く響く。
リシェルはゆっくりと視線を上げた。
「真心……それは、隣にいる方を踏み台にしてでも、自分が愛されようとする心でしょうか。もしそうであれば、わたくしには生涯、持ち合わせませんわ」
ミリアの顔が一瞬、引きつる。周囲の視線が一斉に妹へと向かう。
エドワードは何かを言いかけたが、リシェルは静かに礼をして歩み出た。
「殿下、これまでありがとうございました。どうか末永くお幸せに」
会場の扉に向かって進むリシェルの背中に、誰かの囁きが聞こえた。
“負け犬令嬢”
“あれが噂の冷たい女か”
“可哀想に”
それでも彼女は立ち止まらなかった。かかとの音だけが静まり返った広間に響く。
だが、そのとき——。
「待ちなさい」
沈んだ広間に低く落ちる、冷たい声。
誰も見たことのない形相で、第二王子アーロンが歩み出てきた。黒い髪が光を吸い込み、鋭い金の瞳が獲物を見据える狼のように輝いている。
「おもしろいことをしてくれたな、兄上」
「アーロン、これは我らの——」
「兄上の“恋愛ごっこ”など興味はない。ただ、王太子としてあまりに愚かだと思ってな」
ざわめきが広がる。アーロン王子はリシェルの前に立ちはだかり、そっとその手を取った。
「殿下っ……! な、何を——」
「この婚約破棄、正式な手続きを経ていない。王家に提出した婚約証書にも、破棄のための合意はない。よって現時点でリシェル・グレイスは王家に連なる存在だ。つまり、兄上、貴殿は婚約者に公の場で不名誉を与えた。これは不敬にも等しい」
一瞬にして空気が凍りついた。
エドワードが立場を取り繕うように声を荒げる。
「なんだと!? そんな——」
「法を軽んじるのは勝手だが、王族としての品位を忘れるな」
アーロンの声は冷えきった鋼のようだった。
リシェルは思わず見上げた。こんなふうに彼と向かい合うのは初めてだ。
懐かしい記憶がよぎる。幼いころ、城の庭園で隅に咲いた花を「これは君のようだ」と微笑んで渡してくれた少年がいた。その横顔が、今ここにいるアーロンと重なる。
「アーロン殿下……」
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リシェルは一瞬、言葉を失った。会場中が息を呑む。
そのままアーロンは、彼女の肩を抱きながら言葉を続けた。
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低い声は断固としていた。まるで命令のように。
エドワードが何か言い返そうとするが、周囲の貴族がすでにざわめきを抑えられない。
「第二王子が……」「なんという展開だ」「これは王位継承争いにも関わるぞ」
その囁きが次第に渦となり、広間を満たしていった。
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「ありがとうございます。ですが……わたくしは、誰の保護も不要です。破棄されたのなら、ただ自分の道を歩くだけですから」
その凛とした声は、小さく震えていた。心の底のわずかな痛みを押し殺しながら。
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「だが君の道は、ひとりで進むにはあまりにも冷たい」
扉の外では雪が降り始めていた。
白い結晶がゆっくりと舞い、王城の庭を包み込む。
リシェルは一歩を踏み出す。背後から、アーロンの低い足音がついてきた。
遠くで、エドワードが叫ぶ声が微かに響く。
「待て、リシェル! おまえは俺の……!」
彼女は振り返らない。
今、その声が何よりも虚ろに聞こえた。
扉が静かに閉まる音が響いたとき、リシェルの中で何かが確かに終わった。
そして、終わりと同じくらい静かに、新しい何かが動き出した。
続く
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