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第3話 冷たい微笑みの王太子
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翌朝の空は、夜明けの名残のように薄く霞んでいた。白い雪がまだ屋敷の屋根に残り、時折その隙間から陽が射す。
暖炉の火は消えかけ、室内の空気は静まり返っている。リシェルは椅子に座ったまま、夜通し眠れぬままそのまま朝を迎えた。
あのあとアーロンは夜更けまで彼女のそばにいた。けれど、夜明け前には何も告げずに去っていった。まるで夢のような一夜だった。
「……どうして、あんなふうに優しくするのかしら」
自嘲めいた呟きが細く漏れる。温もりを与えられるたびに、かえって痛みが広がる。彼女には、愛や慰めにすがる資格などないと信じていた。
何より、アーロンが行動することで王家の均衡に影響が出る。それが怖かった。
しばらくして、執事のオルソンが部屋の戸口に現れた。
「お嬢様。王宮より使者が参っております」
「王宮……?」
「はい。王太子殿下からの正式な召喚状でございます」
リシェルの胸がわずかに鋭く疼いた。
婚約破棄の翌日に何を――王家は、再び彼女を人目に晒すつもりらしい。
「分かりました。……準備をします」
「お嬢様、本当にお行きになるのですか。昨日の一件のあとです、また辱められるやもしれません」
「だからこそ、行くわ。黙っていては彼らの思うままになります」
毅然とした声に、オルソンは小さく頭を下げた。
馬車で王宮に向かう道の景色は、昨日とはまるで違って見えた。
白銀の光の中で街は澄んで見えるのに、その美しさが心を遠ざけるようだった。
誰もが噂話をしている。
──“侯爵令嬢が捨てられたらしい”
──“妹が新しい花嫁候補だそうだ”
その言葉の断片が、雪のように静かに降り注いで胸に痛む。
王宮の謁見の間に入ると、そこには既に王太子と妹ミリアの姿があった。
玉座の前、冷たい床にリシェルは静かに跪く。
「グレイス侯爵令嬢、昨日の婚約破棄について陛下への報告の場を設けたい。……その前に、君の態度を問いただす必要がある」
エドワードの声は相変わらず堂々としていた。
けれど、昨日よりもどこか焦りの色が見える。王城の法と儀礼を無視して公の場で婚約破棄を宣告した以上、彼の評判は悪化していたのだ。
「わたくしの態度、でございますか」
「君は王太子妃としての自覚がなかった。社交の席でも無愛想で、私を侮辱したこともある。さらに昨夜、第二王子との接触があったと聞いている」
「……!」
わずかに眦を上げる。
「誰がそのようなことを?」
「言い訳はいらない。王宮に仕える者はすべて聞いている。君が第二王子の庇護を受けたのは事実だろう」
「庇護ではありません、ただ――」
「沈黙せよ!」
エドワードの怒声が広間に響いた。
壁の装飾がその音を反射して、冷たい緊張が漂う。
ミリアがそれに合わせるように、悲しげに声を上げた。
「お姉様……どうしてそんなことを? 殿下を裏切るような真似を……」
その声音は芝居がかった涙に濡れている。
リシェルは苦笑した。
「妹よ、裏切りとは、一体どちらがした言葉なのかしら?」
短く投げたその一言が、場の空気を動かす。だが、ミリアは慌てずに腰をかがめ、エドワードの袖を掴んだ。
「お姉様は混乱していらっしゃるの……どうか、罰を軽くして差し上げて」
まるで慈悲深い妹を演じるように。
それが余計にリシェルの心を削った。
エドワードはため息のような吐息をつき、椅子へ腰を下ろした。
「リシェル。君の品位はもはや王族にふさわしくない。正式に婚約破棄の文書を提出し、侯爵家にも承諾を届ける。これで終わりだ」
彼の声には冷たい安堵があった。
彼にとって、すべては王家の威信を保つための“処理”に過ぎない。
リシェルの存在も、ただの駒の一つだったのだ。
沈黙が満ちた。
その静けさの中で、扉が開く音が響く。
長い足音。凍りついた空気を踏みしめるように、アーロンが入ってきた。
「許可なく入るな! ここは王太子の私的な──」
エドワードの声を遮るように、低い冷えた声が響いた。
「公の場だろう? 王家の処分を行うなら、証人は必要だ」
アーロンの目に宿る黄金の輝きが、エドワードを鋭く射抜いた。
「この女は私の庇護下にある。ゆえに、彼女への処分は王命なくして下せぬはずだ」
「貴様、何を勝手に!」
「兄上が“正式”を口にするなら、法を守れ。
そもそも、昨夜の公会での破棄は法を無視した茶番だったはずだ」
一瞬、会場の空気がピシリと張りつめる。
エドワードの表情がゆっくりと歪む。
「……まさか、弟である貴様が私に逆らうつもりか」
「逆らうんじゃない、正すだけだ」
その言葉には氷よりも鋭い刃が潜んでいた。
エドワードのこめかみがぴくりと強張る。
「よかろう、第二王子。では貴様に問う。もし私が王となったなら、この女をどう扱う?」
「王になったとしても、女を捨て、名誉を潰した王に誰が従う?」
一瞬の応酬に、重臣たちの息が止まった。
まるで氷の上を歩くような緊張が走る。
リシェルはその光景をただ見つめていた。
心が追いつかない。彼の言葉ひとつひとつが胸の奥に刺さる。
なぜここまでしてくれるのか――
アーロンが彼女を守る理由が分からなかった。
やがて王太子は沈黙し、冷ややかな笑みを浮かべた。
「好きにしろ。だが、俺はこの件を忘れぬ。いずれ後悔するぞ、アーロン」
その笑みには焦りと屈辱が混じっている。
ミリアは彼の袖を引き、涙ぐんだふりをしながら頭を下げた。
「殿下、もう……参りましょう。お姉様もお疲れのようですわ」
エドワードは何も言わず、冷たい足取りで退室した。
その背中に、リシェルはようやく別れの確信を感じた。
広間に残った静寂の中で、アーロンが彼女の前に立つ。
「これからどうするつもりだ」
「侯爵家に戻り、身を慎みます。今はそれしか――」
「それでは終わらせない。もう一度、誰かの足元で生きるつもりはないだろう」
リシェルの瞳が揺れる。
「……どうすればいいの。わたくしはもう、立場も名誉も失ったのよ」
「なら、新しい場所を作ればいい。君が君として生きられる道を。俺が手を貸そう」
窓の外では雪雲が割れ、薄明るい光が差し込み始めていた。
リシェルはその光に手を伸ばした。
ほんの少しだけ、希望というものを思い出すように。
けれど、その掌がまだ震えているのを、アーロンは見逃さなかった。
「怖いか」
「……ええ。今は、少しだけ」
「なら、どれほどでも支える。それが俺の望みだ」
その静かな言葉が、胸の奥深くに沁み込んでいく。
リシェルは思わず目を閉じた。
温かくも切ない感情が胸の中心に灯る。
けれど、その灯りの裏側で、王都の別の場所ではもう新たな噂が渦を巻いていた。
“王太子を怒らせた第二王子”“侯爵家の令嬢が再び争いの種に”
冷たい笑い声が、また雪とともに街を覆っていく。
続く
暖炉の火は消えかけ、室内の空気は静まり返っている。リシェルは椅子に座ったまま、夜通し眠れぬままそのまま朝を迎えた。
あのあとアーロンは夜更けまで彼女のそばにいた。けれど、夜明け前には何も告げずに去っていった。まるで夢のような一夜だった。
「……どうして、あんなふうに優しくするのかしら」
自嘲めいた呟きが細く漏れる。温もりを与えられるたびに、かえって痛みが広がる。彼女には、愛や慰めにすがる資格などないと信じていた。
何より、アーロンが行動することで王家の均衡に影響が出る。それが怖かった。
しばらくして、執事のオルソンが部屋の戸口に現れた。
「お嬢様。王宮より使者が参っております」
「王宮……?」
「はい。王太子殿下からの正式な召喚状でございます」
リシェルの胸がわずかに鋭く疼いた。
婚約破棄の翌日に何を――王家は、再び彼女を人目に晒すつもりらしい。
「分かりました。……準備をします」
「お嬢様、本当にお行きになるのですか。昨日の一件のあとです、また辱められるやもしれません」
「だからこそ、行くわ。黙っていては彼らの思うままになります」
毅然とした声に、オルソンは小さく頭を下げた。
馬車で王宮に向かう道の景色は、昨日とはまるで違って見えた。
白銀の光の中で街は澄んで見えるのに、その美しさが心を遠ざけるようだった。
誰もが噂話をしている。
──“侯爵令嬢が捨てられたらしい”
──“妹が新しい花嫁候補だそうだ”
その言葉の断片が、雪のように静かに降り注いで胸に痛む。
王宮の謁見の間に入ると、そこには既に王太子と妹ミリアの姿があった。
玉座の前、冷たい床にリシェルは静かに跪く。
「グレイス侯爵令嬢、昨日の婚約破棄について陛下への報告の場を設けたい。……その前に、君の態度を問いただす必要がある」
エドワードの声は相変わらず堂々としていた。
けれど、昨日よりもどこか焦りの色が見える。王城の法と儀礼を無視して公の場で婚約破棄を宣告した以上、彼の評判は悪化していたのだ。
「わたくしの態度、でございますか」
「君は王太子妃としての自覚がなかった。社交の席でも無愛想で、私を侮辱したこともある。さらに昨夜、第二王子との接触があったと聞いている」
「……!」
わずかに眦を上げる。
「誰がそのようなことを?」
「言い訳はいらない。王宮に仕える者はすべて聞いている。君が第二王子の庇護を受けたのは事実だろう」
「庇護ではありません、ただ――」
「沈黙せよ!」
エドワードの怒声が広間に響いた。
壁の装飾がその音を反射して、冷たい緊張が漂う。
ミリアがそれに合わせるように、悲しげに声を上げた。
「お姉様……どうしてそんなことを? 殿下を裏切るような真似を……」
その声音は芝居がかった涙に濡れている。
リシェルは苦笑した。
「妹よ、裏切りとは、一体どちらがした言葉なのかしら?」
短く投げたその一言が、場の空気を動かす。だが、ミリアは慌てずに腰をかがめ、エドワードの袖を掴んだ。
「お姉様は混乱していらっしゃるの……どうか、罰を軽くして差し上げて」
まるで慈悲深い妹を演じるように。
それが余計にリシェルの心を削った。
エドワードはため息のような吐息をつき、椅子へ腰を下ろした。
「リシェル。君の品位はもはや王族にふさわしくない。正式に婚約破棄の文書を提出し、侯爵家にも承諾を届ける。これで終わりだ」
彼の声には冷たい安堵があった。
彼にとって、すべては王家の威信を保つための“処理”に過ぎない。
リシェルの存在も、ただの駒の一つだったのだ。
沈黙が満ちた。
その静けさの中で、扉が開く音が響く。
長い足音。凍りついた空気を踏みしめるように、アーロンが入ってきた。
「許可なく入るな! ここは王太子の私的な──」
エドワードの声を遮るように、低い冷えた声が響いた。
「公の場だろう? 王家の処分を行うなら、証人は必要だ」
アーロンの目に宿る黄金の輝きが、エドワードを鋭く射抜いた。
「この女は私の庇護下にある。ゆえに、彼女への処分は王命なくして下せぬはずだ」
「貴様、何を勝手に!」
「兄上が“正式”を口にするなら、法を守れ。
そもそも、昨夜の公会での破棄は法を無視した茶番だったはずだ」
一瞬、会場の空気がピシリと張りつめる。
エドワードの表情がゆっくりと歪む。
「……まさか、弟である貴様が私に逆らうつもりか」
「逆らうんじゃない、正すだけだ」
その言葉には氷よりも鋭い刃が潜んでいた。
エドワードのこめかみがぴくりと強張る。
「よかろう、第二王子。では貴様に問う。もし私が王となったなら、この女をどう扱う?」
「王になったとしても、女を捨て、名誉を潰した王に誰が従う?」
一瞬の応酬に、重臣たちの息が止まった。
まるで氷の上を歩くような緊張が走る。
リシェルはその光景をただ見つめていた。
心が追いつかない。彼の言葉ひとつひとつが胸の奥に刺さる。
なぜここまでしてくれるのか――
アーロンが彼女を守る理由が分からなかった。
やがて王太子は沈黙し、冷ややかな笑みを浮かべた。
「好きにしろ。だが、俺はこの件を忘れぬ。いずれ後悔するぞ、アーロン」
その笑みには焦りと屈辱が混じっている。
ミリアは彼の袖を引き、涙ぐんだふりをしながら頭を下げた。
「殿下、もう……参りましょう。お姉様もお疲れのようですわ」
エドワードは何も言わず、冷たい足取りで退室した。
その背中に、リシェルはようやく別れの確信を感じた。
広間に残った静寂の中で、アーロンが彼女の前に立つ。
「これからどうするつもりだ」
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リシェルの瞳が揺れる。
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「怖いか」
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その静かな言葉が、胸の奥深くに沁み込んでいく。
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