捨てられた公爵令嬢は氷の宰相に愛されすぎて困っています 〜婚約破棄の果てに見つけた真実の愛〜

nacat

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第3話 屋敷追放と孤独の始まり

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朝の光が淡く差し込む部屋で、リリアーナは寝台の上に身を起こした。窓の外では雪解けの雫が軒を伝い、遠くで鳥が鳴いている。昨日まで感じていた沈鬱さはまだ消えていないが、少なくとも息をつく余裕はできていた。彼女は深く息を吐き、足元に置かれた暖かなルームシューズをつま先でつついた。  
昨日の夜が幻のように思える。宰相アラン・グレイスの領館で眠った事実が、いまだに現実味を帯びていなかった。  

ノックの音がして、侍女のセラーナが現れた。  
「おはようございます、リリアーナ様。本日は閣下がお時間を取れるそうで、朝食後に執務室へお越しくださいとのことです。」  
「閣下が……?分かりました。」  
鏡の前で身支度を整える。化粧台には既にブラシや香油まで用意されている。すべてが整っているのに、心のどこかではまだ“居候”に過ぎないと感じていた。  

食堂に入ると、温かなスープと黒パンの香りが空腹を優しく撫でた。アランはすでに席に着き、銀のカップに口をつけている。  
「具合はどうだ。」  
低く穏やかな声。以前より少し柔らかい響きがあった。  
「はい……おかげさまで。昨日よりは。」  
「それならいい。」短く言って、彼は食事を再開した。会話は多くなかったが、不思議と重苦しさはなかった。  

食後、彼の執務室に案内される。壁一面に書棚が並び、机の上には整然と書類の山が積まれている。  
アランは椅子から立ち上がり、一通の書簡を手に取った。  
「これは王都から新たに届いた報せだ。王太子ユリウス殿下がセラ・アルミア嬢との婚約を正式に発表した。」  
その一言に、胸の奥が小さく軋んだ。だが、リリアーナは微笑を浮かべて言った。  
「まあ……お早いことですね。祝福を述べる立場でもございませんが、幸せになられるとよいですわ。」  
アランの眼差しがわずかに和らぐ。  
「君ほど強い者はそうはいない。」  
「強い……というより、もう泣く力すら尽きただけです。」  
「それでも立っている。それこそが強さだ。」  
まっすぐな言葉に、リリアーナの胸の奥で何かがかすかに震えた。誰も自分にそんな言葉をかけてくれたことはなかった。  

だが、穏やかな時間も長くは続かなかった。  
昼を過ぎたころ、屋敷の門前に見慣れぬ馬車が止まり、王都からの使者が到着したという報せが入ったのだ。  
アランが執務室を出て応対する間、リリアーナは廊下の陰からその様子をこっそりと窺った。使者は装飾の多い制服をまとい、見覚えのある紋章を胸に輝かせている。エヴァンス公爵家の従者だ。  
胸が痛む。自分を育て、表向きは家族同然に扱ってきた者たち。それなのに――。  

「グレイス閣下、こちらがお達しです。」  
使者が差し出したのは、金の封蝋で閉じられた文書だった。アランが封を切り、静かに読み上げる。  
「“エヴァンス公爵家は、元養女リリアーナのすべての身分記録を抹消する。家名の使用を禁じ、以後一切の関係を断つものとする。”」  
一瞬、足元の空気が消えたように感じた。心臓が音を立てずに沈み込む。  
アランは文を畳み、無表情のまま使者を見据えた。  
「……それで?」  
「念のため、この地に滞在中と聞きまして。処理をお伝えにまいりました。」  
「もう帰れ。」低く短い声が空気を切る。使者は顔をひきつらせ、慌てて一礼して去っていった。  

静寂。重い扉が閉じられたあと、アランはゆっくりとリリアーナの方へ向き直った。  
「君には知らせる義務があると思った。すまない。」  
「いいえ……覚悟はしていました。むしろ、これで心の整理がつきます。」  
リリアーナは微笑もうとしたが、頬がうまく動かない。笑うには痛みが深すぎた。  
「居場所を失った者の痛みは、簡単には消えない。」  
アランの言葉は、氷のように冷たいのに、なぜか温もりを含んでいた。  

その後もアランは執務に戻り、リリアーナは屋敷の一角で孤独な午後を過ごした。雪が溶けかけた庭を歩きながら、彼女は考える。  
もしすべてを失ったとして、それでも自分には心が残っている。誰かを恨んでも、何も戻らない。だったら、自分を磨いて、もう二度と誰にも傷つけられないように――。  
そう決意を固めかけたとき、背後から声がした。  
「お嬢様、寒いですよ。」  
セラーナが毛布を持って立っていた。  
「ありがとう。……セラーナ、私、ここで何かお手伝いできることはあるかしら?」  
「お手伝いでございますか?」  
「ええ。食堂でも、書庫でも、何でも構いません。甘えてばかりいては居心地が悪いわ。」  
セラーナは少し考え、笑った。  
「でしたら、厨房の手伝いなどいかがでしょう。明日は貴族ではなく、領民の皆さまへの食事会があるのです。」  
「それなら喜んで。」  
小さな希望の芽が、ようやく心の中に芽生えた瞬間だった。  

翌日。厨房に入ると、あたりは熱気に包まれていた。鍋の匂い、焼けるパンの香ばしさ。  
「リリアーナ様、そっちは危ないですよ!」  
声をかけたのは若い料理人のエディだった。  
「ごめんなさい、久しぶりでつい……」  
緊張しつつも、リリアーナは真剣に野菜を切り、スープを味見した。すると、エディが驚いたように目を瞬かせた。  
「お上手ですね。もしかして料理の経験が?」  
「昔、学院に通っていた頃に少しだけ。庶民の子供たちと一緒に。」  
その記憶を口にした瞬間、懐かしい痛みが走ったが、すぐにそれを押し込めた。  

その夜の宴は、領の民が笑顔で満ちた。アランは主として挨拶し、短い言葉で人々を労った。  
リリアーナも片隅で給仕をしていたが、誰も彼女を蔑むことはなかった。むしろ、温かい言葉をくれる者もいた。  
「お嬢さんの笑顔は、春みたいだねえ。」  
白髪の老人の言葉に、リリアーナは胸の奥がじんと熱くなった。自分はもう“公爵令嬢”ではない。だが、人として見てくれる人たちがいる。それだけで救われる気がした。  

宴のあと、庭を歩いていると、アランが控えめに声をかけてきた。  
「今日はよく働いたな。」  
「はい。少し疲れましたけど、気持ちは軽いです。」  
「……そうか。」  
彼は夜風に髪をなびかせながら、遠くの雪山を見つめた。  
「まだ王都では騒ぎが収まらぬ。だが、君はここにいれば安全だ。」  
その横顔は、氷のように冷たく美しいのに、不思議と孤独を宿していた。  

「宰相閣下、あなたは……どうしてそんなに冷たく見えるのですか。」  
リリアーナの問いに、アランは一瞬だけ目を細めた。  
「冷たく見えた方が、人は寄ってこない。それが便利な時もある。」  
「では、本当はお優しい方なんですね。」  
「どうだろうな。君がそう思うのなら、それでいい。」  
わずかに笑ったその表情を見た瞬間、リリアーナの鼓動が高鳴った。  
冷たい仮面の下に確かに人の温もりを感じ、彼女の胸に小さな灯がともった。  

彼と自分の人生が、どこでどう交わるのかはまだ分からない。だがこの出会いが、ただの偶然で終わらないことだけは、もう確信していた。  

(続く)
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