捨てられた公爵令嬢は氷の宰相に愛されすぎて困っています 〜婚約破棄の果てに見つけた真実の愛〜

nacat

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第5話 冷たい声と温かな手

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夜明けとともに冷たい風が吹き抜け、グレイス領の屋敷は静まり返っていた。暖炉の火が消えかけ、まだ薄暗い部屋の中で、リリアーナは早くも起き上がっていた。昨日はなかなか眠れなかった。胸の奥がざわめいていた。アランが言ったあの言葉が、心に残って離れなかったのだ。  
――君は氷を怖がらない女だな。  
あの夜、彼がわずかに見せた微笑みが思い出される。冷たい目の奥に確かに柔らかい光があった。見るたびに胸が高鳴るのに、それが何なのか言葉にするのは怖かった。  

身支度を整え、廊下へ出ると、屋敷の使用人たちが朝の支度をしていた。  
セラーナが彼女を見つけて小走りに近づく。  
「リリアーナ様、お早いですね。」  
「ええ。眠れませんでしたから、少し外を歩こうと思って。」  
「でしたら、防寒具を一枚余分に。今日は冷え込みが厳しいそうです。」  
セラーナが厚手の外套を肩にかけてくれる。その手つきに、リリアーナはふと笑みを浮かべた。「ありがとう」  
それだけの言葉が、口に出るのが嬉しいと感じた。もう何日も、誰かに素直に礼を言える生活をしていなかったのだ。  

外に出ると、空は鉛色で、霧のような雪が舞っていた。庭の木々は氷に覆われ、日差しを受けて淡く光っている。  
リリアーナは靴の先で雪を踏みしめながら歩き出した。息を吸うたび、肺に冷気が染み渡る。目を閉じれば、張りつめていた心が少しずつ解けていくようだった。  

「朝からずいぶん早いな。」  
背後から静かな声がして、リリアーナは振り返った。アランが外套を羽織って立っている。髪に降りかかる雪片がゆっくりと溶け、その灰色の瞳が朝の光を映していた。  
「おはようございます、アラン様。眠れなくて、つい外を。」  
「そうか。風が冷たい。長くはいられないぞ。」  
「ええ、大丈夫です。少し歩くだけですので。」  

アランはしばし彼女を眺めていたが、ふと手袋を外して懐から小さな包みを取り出した。  
「これを。」  
「……これは?」  
「冬用の薬草の香り袋だ。外に出るとき持っておけ。寒さで気が滅入るのを和らげる。」  
小さな布袋を手渡され、リリアーナは胸の近くで握った。穏やかな香りが漂い、心がほっとゆるむ。  
「ありがとうございます。……アラン様は本当に細やかですね。」  
「そう思うか。」  
「ええ。世間では“氷の宰相”なんて呼ばれておられますけど、氷よりずっとお優しいです。」  
その瞬間、アランの動きが僅かに止まった。  
「……優しさと情は違う。」  
「ちがい?」  
「優しさは理から外れぬ行いだ。だが情は理を壊す。宰相として、優しさは許されても情は許されない。」  
淡々と告げる言葉の奥に、どこか自嘲の響きがあった。  

リリアーナはアランの顔をじっと見上げた。頬に落ちた雪が、白い肌の上で溶けゆく。そんな寂しげな姿が胸を締めつけた。  
「……では、アラン様は“情”を持たないのですか。」  
「どうだろうな。」  
わずかに目を伏せる。その視線が雪の上に落ち、淡く光る粉雪を見つめていた。  
「昔は持っていた。だが、それがどれほど脆いものかを、痛いほど知った。」  
その声が掠れていた。リリアーナは問い返すことができなかった。彼がどんな過去を抱いているのか、胸の奥に深く沈めている傷を、掘り返すことが怖かった。  

やがてアランは話題を切り替えるように歩き出した。  
「今日、領内の孤児院に物資を届ける。君も来るか。」  
「……よろしいのですか?」  
「ああ。新しい風が必要だと、領民にも言われている。」  
その言葉に、リリアーナの胸が温かくなった。自分にもできることがあるかもしれない。誰かの笑顔を見られるかもしれない。それが嬉しかった。  

馬車で少し走ると、小さな教会の隣にある孤児院に着いた。雪に覆われた屋根の下で、子どもたちの笑い声が響いている。  
アランが降りると、院長の女性が頭を下げた。  
「わざわざありがとうございます、閣下。」  
「気にするな。領の子どもたちは国の未来だ。」  
その声は冷たく響くのに、子どもたちが寄ってきて袖を引っ張ると、わずかに表情が柔らいだ。  
「閣下、あのね、新しい靴もらった!」  
「そうか、よかったな。」  
アランが少年の頭を軽く撫でる姿を見て、リリアーナは驚いた。彼にもこんな優しい一面がある。噂に聞く“氷の宰相”の面影ではなく、まるで年若い父親のように見えた。  

荷を運ぶリリアーナの姿も、子どもたちの好奇心を引いた。  
「きれいなお姉さんだ!」  
「お姫さまみたい!」  
子どもたちの無邪気な声に、リリアーナは思わず笑った。  
アランが横でそれを見ながら目を細める。「君が笑うと、雪がやむようだな。」  
「え?」  
「いや、独り言だ。」彼はわずかに口元を緩めたが、それはとても珍しい笑みだった。  

帰りの馬車の中、リリアーナは窓の外を眺めながら呟いた。  
「アラン様は、冷たい方だと思われているのに、本当はとても温かいですね。」  
「その言葉を聞いたのは久しぶりだ。」  
「誰も気づかなかったのですか?」  
「気づいたとしても、人は“噂”の方を信じる。都合がいいからな。」  
淡々とした声音だったが、その中にわずかな疲れが混じっていた。  

リリアーナはためらいながらも口を開いた。  
「では、私は――噂よりも本当を見ます。」  
アランの瞳が彼女を見た。灰色の光が一瞬だけ鋭くなり、すぐに静まる。  
「……君は時々、危ういことを言うな。」  
「危うい?」  
「見なくていいものまで見ようとする。その優しさが、君をまた傷つけるかもしれない。」  
「それでも見たいんです。誰かの本当の姿を。」  
「……愚かだな。」  
小さく息を漏らしながら、アランは視線を窓に戻した。けれど、どこか満足げでもあった。  

屋敷に戻るころには夕暮れが近づいていた。  
玄関に入ると、外気に触れたせいかリリアーナの指先が冷たく震えていた。  
「冷えすぎたな。手を出せ。」  
「え?」  
アランがその手を取った。大きな掌が包み込むように重ねられる。指先に彼の体温が伝わり、心臓が跳ねた。  
「温まるまで動かすな。」  
「……ありがとうございます。」  
「感謝は後で言え。」  
短い言葉なのに、リリアーナにはそれが何より優しい音に聞こえた。やがて指先の冷たさがほんのり消えたころ、アランは静かに手を離した。  

食堂に戻る途中、リリアーナは胸の奥に芽生えた熱を抑えきれずにいた。  
冷たい声の裏にある温もり。無表情の奥に見えた不器用な優しさ。  
それを知ってしまった今、彼をただの“恩人”として見ることがだんだん難しくなっていく。  

その夜、眠る前に窓辺に立つと、雪が静かに降り続いていた。手の中には、今もほのかに香る薬草袋。  
リリアーナは目を閉じてそっと微笑む。胸の内に宿ったぬくもりが、冷たい夜を優しく溶かしていった。  

(続く)
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