婚約破棄された悪役令嬢は、辺境侯に拾われて過保護に愛される

nacat

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第4話 辺境への旅立ち

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翌朝、辺境の空は鉛のように重かった。  
一夜明けても雪は止まず、風が岩壁を叩きつけるように吹きつけている。  
けれど、その寒さの中で、エリシアの肺に入る空気は澄んでいた。  
王都の閉ざされた空気とは違う。ここには、恐怖も陰口もないかわりに、厳しくも清らかな現実があった。  

「目が覚めたか」  
低い声に振り向くと、ゼノヴィアが立っていた。  
厚い外套の下、手には革の手袋。すでに出発の準備を終えている。  

「はい。ご迷惑をおかけしてばかりです」  
「迷惑だと思ったことは一度もない」  

あまりにも素直なその言葉に、エリシアは少し顔を赤らめた。  
彼の灰色の瞳が、雪明かりを映して淡く光る。  

「今日は領都に向かう。正式に身を預ける手続きをしなければならない」  
「領都……このお城からさらに遠いのですか?」  
「ああ。馬で半日ほどの距離だ。雪で少し時間はかかるだろうがな」  

ゼノヴィアは淡々と答えたが、口調の端にわずかに気遣いがあった。  
どこかで彼がこちらを咎めずに、見守っているような感覚。  
不思議と、寒さが和らぐようだった。  

厚いコートを羽織り、手袋をはめて外に出る。  
辺境の地は、想像以上に広く、そして静寂が支配していた。  
雪に覆われた大地が一面に広がり、遠くに山脈の影が霞んでいる。  
青く凍った川が蛇のように地を這い、そこにかかる木橋は折れそうに古びていた。  

「……こんな場所に、本当に人が暮らしているのですね」  
「暮らしている。たくましく、な」  
ゼノヴィアが馬の手綱を引きながら言う。  
「王都の貴族たちは、ここを『流刑地』だの『死の土地』だのと呼ぶ。だが俺は、生きる場所を選んだつもりだ」  

「選んだ……この厳しい土地を、ですか?」  
「そうだ。俺は戦場で生きてきた。人間は、余計なものが多すぎると弱くなる。ここでは、生き残ることが誇りそのものだ」  

その言葉が、胸に深く響いた。  
王都での日々。  
決められた衣装、決められた話題、決められた笑顔。  
自分では何ひとつ選んでいなかった。  

(私は、あの世界の中では生きていなかったのかもしれない)  

馬車が進む。雪道を越えるたび、震えながらも心の奥に奇妙な充実感が生まれていく。  

*  

しばらく走ると、道沿いに小さな集落が見えてきた。  
木造の家々が寄り添うように並び、屋根からは白い煙が上がっている。  
人々は粗末な衣でありながら、逞しい笑顔を浮かべていた。  
彼らはゼノヴィアを見ると帽子を取って頭を下げ、深く敬意を示した。  

「侯爵様! お戻りでしたか!」  
「雪嵐の中、どうかお気をつけて!」  

ゼノヴィアは軽く頷くだけで通り過ぎた。  
その姿を見送る村人たちの目には、信頼と畏敬が入り混じっていた。  

「皆さん、あなたを慕っているのですね」  
「慕われているうちはまだいい。俺が嫌われないよう、無理をしていない証拠だ」  
「嫌われるのが怖いのですか?」  
「いや。嫌われるのは構わない。だが、“怖れ”だけで成り立つ支配は、いずれ崩れる」  

ゼノヴィアの言葉には、戦場で培った現実があった。  
彼が冷徹だと噂されるその裏に、実は誰よりも「人を見ている」優しさがあるのだと、エリシアは気づき始めていた。  

やがて馬車は緩やかな丘を越え、視界の先に広がる城下町が見えてくる。  
雪の中でも活気に満ち、煉瓦造りの家々が並ぶ領都アーヴェルト。  
人々は外套を翻しながら市場を行き交い、笑い声がこだまする。  
その光景に、思わず息をのむ。  

「こんなに賑やかだなんて……」  
「辺境とはいえ、ただの荒地ではない。交易路の拠点でもある。戦で荒れた土地を少しずつ再興させたのは、ここの民だ」  

エリシアは静かに頷いた。  
どんなに厳しい土地でも、希望は絶えない。  
この地の空気には、確かに“生きる力”が漲っている。  

馬車が止まり、石畳の前に下りる。  
そこは領主館――つまりゼノヴィアの本邸だった。  
外壁には古傷のようなひびが走り、それでもどっしりと大地に根を下ろしている。  

「ここに、私は……」  
「住むことになる。王都からの追放者であろうと、この領では客だ。必要なものは全て用意しよう」  

ゼノヴィアが手を差し伸べる。  
昨日よりその仕草が自然で、ためらいがなかった。  
エリシアも迷わずその手を取った。  

玄関で出迎えたのは、三十代ほどの女性だった。  
背筋の伸びた姿に、温かな微笑みを浮かべている。  

「侯爵様、お帰りなさいませ。こちらが噂の……」  
「彼女は今日からこの城の客人だ。紹介しておけ。——これは、執政官であり、家務も統括しているレティシアだ」  

「エリシア・グレイスと申します。お世話になります」  
「まあまあ、公爵家令嬢がこちらへ……ようこそいらっしゃいました。辺境は寒いですが、みな温かい人ばかりですよ」  

その声の穏やかさに、緊張がほぐれた。  
レティシアは母のような笑みで、案内を始めた。  

石造りの廊下、広間に燃えるかがり火。  
王都の宮廷に劣らぬ荘厳さがあったが、そこには確かに“人の暮らしの匂い”がある。  
兵士たちが笑い、侍女たちが談笑する。誰もがゼノヴィアに対して敬意を払いつつ、恐れではなく信頼で接していた。  

自室に案内され、エリシアは窓辺に立った。  
吹雪の向こうに広がる大地。遠くの山々が霞んで白く光る。  

「王都と、まるで違いますね」  
「ここは、生きるために必要なものしかない。……だが、お前には必要な穏やかさもあるだろう」  
レティシアの言葉が優しく響いた。  

厚い毛布と暖かい紅茶が運ばれてきて、ようやく体がほぐれる。  
カップを持つ手が震える。  
冷えのせいではなく、何か心の奥で温かいものが溢れているせいだった。  

扉が軽く叩かれる。  
「入れ」  
レティシアの声に応じて開いた扉の向こうには、もう一度ゼノヴィアが立っていた。  

「落ち着いたか」  
「はい。とてもよくしていただいて……」  
「そうか。それならいい」  

沈黙。  
彼は少し逡巡したのち、言う。  
「お前を迎えたのは、ただの同情ではない。お前がここで、自由に選び、何を掴むのか見てみたいと思った」  

「私が……何を掴むのか……」  

「王都の女が、すべての誇りを失ってもなお、立ち上がることができるのか。……それを知りたい」  

挑むような言葉だった。だが、その奥には確かに“期待”があった。  
エリシアはわずかに微笑み、まっすぐに答える。  

「なら、私もそれを証明します。もう誰かの飾りものではいません。自分で、ちゃんと生きてみせます」  

その眼差しの強さに、ゼノヴィアが小さく頷いた。  
「よく言った。では、明日から始めよう。この地の暮らしを」  

部屋を出ていく背中が遠ざかる。  
その影を見送りながら、エリシアは深く息を吸った。  
冷たい空気が新しい鼓動を生む。  

すべてを失ったはずなのに、今、心は確かに満たされていた。  
孤独ではなく、始まりを感じている。  

雪が窓の外を静かに舞う。  
その白が、まるで祝福するように、エリシアの新しい日々を包みこんだ。  

(第4話 終)
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